その日、田邊と訪れた先で何を知ったのか。
自分が聞かされた話を、美月は壮絶な痛みに堪えるように何度も息を吐きながら、それでも努めて冷静であろうとするかのように、静かに話し終えた。
ただ、言わないと約束したからと、母親の話を誰から聞いたのか、誰の元を訪れたのかは最後まで口にすることはなかった。
そうして、その後、田邊に襲われた話については口を閉ざし何も話さなかった。
話を終えると、一気に疲労に襲われたのだろう、再び深い眠りについた美月を見つめながら、功は淳也に外に出るよう合図した。
淳也は、怒りを押し殺すような複雑な表情をしていた。田邊に対する憤りと共に、美月の母親の話に父である香川が絡んでいる事が決定的になり、動揺を隠せない様子だった。
「功さん……父は、本当にお金を、渡したんでしょうか」
功は、夕べのうちに、康人と淳也が二人で調べ上げていた事実の一端を思い返していた。康人が入り込んだ香川のPCのデータから、ちょうど美月の母親らしき女性が園を訪ねたのと同じ頃、二条家が極秘に調査を依頼する際に利用している興信所に、確かに何らかの依頼がなされていた。
話を聞いた今、時期的にも重なるその依頼は、美月の母親に関する調査である可能性が非常に高いと功は考えていた。
「淳也」
「……はい」
「知ってる人間に聞くのが一番早い。できれば今日にでも時間が欲しいと、香川に伝えて貰えるか」
「わかりました」
「淳也。香川の行動は、香川の意志によるものとは限らない」
「でも――」
「お前だって、うちに仕える限りは、自分の意志に反することをこの家の為にしなければならない時が来るんだ」
淳也は、ハッとして功を見つめた。
「それがどんな答えでも、お前が簡単に父親を責めたりはするな」
「功さん……」
「それから、美月の友達に連絡を取ってくれないか」
「金沢藍ちゃん、ですか?」
「そうだ。今日のあの男の動きも少し知っておきたいし、頼みたいこともある」
「わかりました」
淳也の中から、父に対する疑いやわだかまりが消えたわけではないだろう。だがそれでも、功の言葉で少しは冷静になり、事実と向き合う覚悟ができたようだった。
「あの男のことは、どうしますか? このままでは絶対に済ませられません」
「勿論、このままで済ませるつもりはないよ」
「功さん……みいは本当に、大丈夫だったんでしょうか。あいつに……あの……」
淳也が言葉を濁しながらもう一度功に、否定を求めるように問い掛けた。
「医者はその形跡はないと言ったんだ。美月もそう言ってる。でも……あいつの身体は、傷だらけだった。顔にも……。未遂だと言って、暴行されたことに変わりない」
「……はい」
「二度とあの男を美月に近付けたりしない。そのためには、周到に準備をしなきゃならない」
淳也はその言葉にしっかりと頷いた。
功はやがて部屋の時計に目を遣ると、物憂げな表情を浮かべ口を噤んだ。
「功、さん?」
声を掛けるのを躊躇するような空気に、けれど淳也が呼びかけると、功は我に返り口を開いた。
「そろそろ美月を、部屋に帰さないといけないな。ここに置いておくと、後々面倒な話になる」
そう呟きながら立ち上がり、淳也に夕べの医師に連絡をして往診の時間を決めておくように、と指示をする。
和美が帰る前に、美月を自分の部屋に帰しておきたかった。美月のあの様子では流石に和美の目を誤魔化すことは不可能だ。ある程度の真実は、伝えなければならない。その役割は自分が引き受けると、淳也が申し出た。
任せたと頷いた功は、部屋の奥に別室として設けられているウォークインクローゼットへ向かうと、中にある棚の小さな引き出しを開けた。そこから白い布袋を手に取ると、紐を手首に掛けて寝室へと引き返す。
――俺が部屋に連れていきます
そう申し出た淳也を視線だけで制して、美月の眠るベッドに近付く。淳也の表情を見ただけで、自分がどんな顔をしたのかがわかり胸の内で苦笑した。
この時間帯は殆ど誰も階上へは上がってこないはずだが、念のためにと、先に淳也に様子を見に行かせて、その間に美月を起こさないようにそっと抱き上げた。まだ少し熱があるのが、触れた身体から伝わってくる。
「……ん……」
「部屋まで連れて行くから、そのまま眠ってるといいよ」
微かに目を開けた美月に、そう穏やかに声を掛ける。やがて腕の中の美月は、瞳を閉じてまた眠りについたようだった。余程疲れているのだろう。
もしかしたら今目を開いたことも、功が抱き上げていたことも覚えていないかも知れない――そう思いながら、戻って来た淳也と共に美月の部屋へと向かった。
この部屋に入るのは、通夜の夜以来だった。ホテルの部屋のようだと感じたその印象は、今もほとんど変わっていない。
まるで部屋の主は、ここに仮住居しているだけのようにさえ感じられる。
彼女が小学生だった頃に使っていた部屋は、女の子の部屋らしく可愛いらしいもので満ち溢れていた。あれは元々、妹のための部屋だった上に、美月の成長に応じ、由梨江が手を掛け整えていたのだろう。
この部屋を見ただけで、美月がこの家の中でどんな風に自分を位置付けているのかがよくわかる。
「相変わらず、随分とシンプルな部屋だな」
「みいは、何も要求しないんです。変えようとしても、これが好きなんだって言い張って」
「……そうか」
功はもう一度部屋の中を見渡してから、美月をそっとベッドに下ろした。
「淳也」
「はい」
「しばらく、出ててくれないか」
躊躇うように口を閉ざした淳也に、功はもう一度言葉を重ねた。
「ちゃんと、わかってるから」
功から目を逸らした淳也は、眉を潜めたどこか苦い表情を浮かべた。
「わかりました。先生が来るまで、外にいます」
しばらくの間ベッドに眠る美月を見つめた淳也は、顔を上げると、功の目を見て静かに頷いた。
扉が閉まり、部屋の中に静寂が訪れる。
ベッドサイドに近寄り、美月を起こさないようゆっくりとベッドの端に腰を下ろした。
寝顔を見つめながら、そっと頬に手の甲を宛がう。微かに声を漏らした美月は、目を覚ましたわけではないようで、暫くすると寝息が規則正しくなった。
腫れて色が変わった頬と、生々しい傷の残る唇。途端に、脳裏に彼女が男に襲われている映像が浮かぶ。
心臓がドクリと音を立てた気がした。
彼女が決して口にしようとしなかった話の続き――あれ程までに辛い話を聞かされた後で、田邊に襲われたのに間違いはないだろう。
その時の恐怖と絶望を思い、怒りと苦しさに、功は頬から離した手を震える程強く握り締めた。
このまま腕の中に閉じ込めて、自分の手で守ってやりたい。
だがこの想いは、彼女から居場所を奪う事にもなりかねないものなのだ。美月のためにも、胸の奥に封じ込めてしまわなければならない。
いずれそう遠くはない未来、彼女が誰かのものになるのを、黙って受け入れる時がくる。そうして自分は、この家に相応しい家柄の女性と結婚することを義務付けられているのだ。
これまで、功はこの家の後継者に生まれたことを、運命なのだとそう思い受け入れてきた。
今、その呪縛が心を締め付けて痛い。
何を持っていても、何よりも欲しくてたまらないものは手に入らないのだ。
けれど皮肉な事に、自分が二条功でなければ、美月と出会い彼女に惹かれる事は決してなかっただろう。
「――芙美夏」
胸の中でしか呼ぶ事のない彼女の本当の名を、初めて小さく声にのせてみた。
「お前を……誰にも、渡したくない」
応えることのない、静かな規則正しい寝息が聞こえてくる。一度強く閉じた瞳を開いて、功はしばらくそこに佇んだまま、ただずっと、焼き付けるかのように美月の寝顔を見つめ続けていた。
淳也が、医師の訪れを知らせるために、部屋をノックするその時まで。
遠慮がちなノックの音に、功はゆっくりと立ち上がると、屈み込んで美月の額にそっと口づけた。
ベッドサイドのテーブルに、部屋から持ってきた白い袋を置いて、その部屋を後にする。
「後の事は頼んだ。康人にもう少し調べてもらうことがあるから先にマンションに戻る。香川と会える目処がたったら連絡をくれないか」
淳也が頷くのを待って、後ろに佇んでいた医師の倉知に視線を送り黙礼をした。
「先生が仰った通り夕べは高熱が出ました。薬を服用させたので、夜のうちに熱はかなり下がっていました。今朝は軽く食事もさせましたが、まだ微熱があって今は眠っています。先生、彼女を……。美月のことをお願いします」
功を見つめた倉知は、その言葉にしっかりと頷き、入れ替わるように美月の部屋へと入っていった。