「美月さあ、田邊会長と何かあった?」
実験室に移動する時、並んで歩いていた藍が口を開いた。
「えっ」
「さっき、食堂でちょっとおかしかったし」
「ううん、何にもないよ。私あの人と話したことすらないし」
「そう……ならいいけど。何かさ」
「何か、なに?」
「あの人。さっきテラスに入ってきた時、真奈が目が合ったとか言ってたけど」
「言ってた言ってた。真奈、田邊会長のファンだもんね」
「あれ、あの時、あの人美月のこと見てた」
「……え」
「私も一瞬しか見てないけど、多分。なんていうか、美月があそこに居るの確認しにきたって感じがしたから」
「それ……は、気のせいだよ。空いてる席を探してるときにたまたまこっちに目線をやったんじゃないかな」
答えながら、美月は思っていた。自分は今、不自然な表情や話し方をしていないだろうかと。まだそれほど付き合いが長いわけではないが、藍はとても勘が鋭い。さっきのほんの少しの美月の動揺にさえ気が付いていて、しかもその理由の推測は殆ど的を射ている。
「そうかなあ。まあそうかもしれないけど。けどさ、私」
藍は立ち止まり美月のほうを見つめた。
「ここだけの話。あの人のこと、あんまり好きじゃない」
「……なんで?」
「美月も結構、ああいうタイプ苦手じゃない?」
「苦手っていうほど、よく知らないし。それに田邊先輩、頭も性格もよくて先生たちの評価も凄く高いって聞くよ。見た目も可愛いし他校にもファンがいるって。生徒にも人気高いし……真奈だけじゃなくって結構みんな騒いで」
「確かにそうなんだけど。でも、どう言ったらいいのかな……」
藍は言葉にできない感情に、もどかしげに舌打ちをした。
「何かさあ。そりゃ顏だって可愛いし整ってるのは認めるけど……目が、嘘っぽい。私はあんまりお友達にもなりたくないタイプかな。あ、これ真奈には絶対内緒ね」
最後は少しおどけた口調で話しながら、実験室の扉を開ける。
藍の人を見る目に、美月は内心舌を巻いていた。
田邊正樹――淳也の卒業後、学園の生徒会長に就任したのは、高等部二年の夏頃、外部から転入してきた田邊だった。高等部入学時に編入してくる者を除き、途中編入してくる生徒はとても珍しい。しかもその生徒がわずか半年で生徒会長に就任したのだ。
噂では、彼は田邊総合病院という大きな病院の院長の息子で、スイスの研究所で研究員として働いている親戚がいて、編入前まではあちらに留学していたらしい。病院の後継者になるために日本の教育を、という事情で帰国し学園に編入して来たのだという。
だが、高等部の入学式で、新入生への挨拶のため壇上に上がった新しい生徒会長の顔を見た時、美月は、指先がすっと冷える感覚を覚えた。
彼を知っている――そう感じた。いや、とてもよく似た人を知っていた、というのが正確なのだろうか。名前も違っている。美月の記憶に残る彼の名前は「正巳」だった。まあ君と、園の皆からそう呼ばれていた。
――嘘つきまあ君、と。
今の今まで思い出すことなどなかったのに、田邊の姿を見た途端、鮮明に正巳の記憶が蘇った。
きっと別人だと思おうとしたが、自分の境遇を思えば、彼がどこか資産家の家に養子として引き取られ、名前を変えている可能性は否定できない。何より本能的に、彼はまあ君だと感じていた。
美月が施設で暮らすようになってから数年目に、まあ君は入園してきた。美月より二歳年上のまあ君は、女の子のように可愛い顔をしていた。頭がよく聞き分けもよくて穏やかで、率先して自分より小さい子ども達の面倒みるような子だった。彼は園にやってきてほんの短い間に、先生や園の児童たちの人気者になっていた。
彼を慕ってまるで弟分のようにまあ君に付き従う子どもも少なくなかった。しかし、しばらくすると、明らかにまあ君を恐れている子たちがいることに、美月は何となく気が付いた。
それまでリーダー的な役割を果たしていた子ども達のそのポジションは、それと気付かぬほど自然にまあ君のものとなっていた。
彼は、非常に巧妙に嘘をつく子どもだった。
彼の嘘の被害者は、彼が用意周到に張り巡らせた罠にかかり、知らぬ間に加害者という立場に立たされていた。被害者であったはずの子どもが、いつの間にか周りの大人たちからは加害者にしか見えなくなっているのだ。
巧妙な嘘で周りの人間を操り、そして大人にはとても上手く取り入った。園の先生たちのように、数多くの様々な境遇の子ども達を見てきた大人でさえ、彼には騙された。
美月も一度だけ、彼の嘘で危うく命さえ落としそうになったことがある。その時も、最後には彼は美月を救い出したヒーローで、美月は自分勝手な行動で皆に迷惑を掛けたことを先生たちにひどく叱られることとなった。
彼の本当の顔に気付き始めた子どもたちは、陰で彼のことを「嘘つきまあ君」と呼ぶようになっていった。だが、被害にあっていることにすら気が付かない者も大勢いるほど、彼の嘘は巧妙で狡猾なものだった。
美月は、正巳が初めて施設にやってきた時から、何故か彼が苦手だった。目が合うと指先が冷たくなった。理由もわからぬ子どもながらに、彼に感じていたのは恐れだったのだと、今ならわかる。
もしも田邊正樹が正巳――まあ君なら。彼ならば、その巧妙な嘘で資産家の家庭に入り込み、自分の思うように周りを操ることなど、きっと容易くやってのけるに違いない。
優しげで穏やかな、そして可愛いと持て囃されるアイドル並の風貌、だがその下には全く別の顔が隠されている。
確信のないまま、けれど美月は、出来る限り田邊と顔を合わさないよう、注意を払っていた。彼が本当にまあ君であろうがそうでなかろうが、確認することなど意味もない。
彼から受ける印象は、まあ君と同じものだ。それだけで、係わり合いになりたくない理由としては十分だった。
幸い学年も違っていたし、他の学年と一緒になるカフェテリアも、田邊はこれまで利用することがなかった。いつも別館にあるサロンか生徒会長室で昼休みを過ごしているという噂だった。
だから、今日田邊がカフェテリアに現れたことに、周囲は騒いでいたのだ。