本編《Feb》

第二章 三日月7


 再びPCに向かい、しばらく滑らかにキーボードの上で指を滑らせていた功は、最後にひとつキーを叩いた。
「繋がった」
 しばらくすると画面上に、馴染みのある部屋し出される。
「え、これって……」
 淳也は、驚きに絶句した。
「あの部屋には、実はカメラが据えられている」
「え、じゃあ、ずっとこれで監視されてたってことですか」
 淳也が上げた不快そうな声に、功が微かに笑う。画面に映っているのは、学園の生徒会長室だった。
「そうだ、と言いたいところだけど、俺や淳也はこのカメラには映っていない。今から探そうとしている映像も、映っているかどうかはわからない」
「もうちょっとわかるように説明してください」
 功はキーボードを操作しながら、カメラが仕掛けられている経緯を淳也に話して聞かせた。

 もともとあの学園には金持ちや有名人の子ども、由緒ある家柄の子女が多く通っている。そのため、セキュリティーは万全でなければならない。園内には実のところ無数のカメラが設置されていて、それは大々的に説明されもしないが伏せられている訳でもなく、保護者に対し園内の安全を謳うのに大いに役立っている――。

「校内にいくつかカメラがある事は確かに知ってましたけど、でもまさか、会長室にまで」
「カメラの画像は、生徒を監視する目的で使用するわけじゃないから、何もない限り決して外部へ流出する事はない。毎日膨大な量のデータが蓄積されるから、映像が保管されているのもせいぜい数ヶ月、恐らくは長くても半年程度だろう。生徒が多少羽目を外している映像なんか、特に問題が起らない限りはスルーされるのが普通だ。まあ半分は、預かっている子どもの安全を保障しますっていう学園のパフォーマンスみたいなものだ」
「それであの部屋もですか?」
「会長室を造り直した時、カメラを備えつけたいと言われて一度は拒否したんだ。けれど俺や淳也が会長の間は作動させないという特別扱いでオッケーした。だからそれが守られていたなら、俺達の映像は撮影されていなかった筈だ。学園の大好きな特別扱いっていうやつだよ」
「あ……じゃあもしかして」
 説明を聞くうちに、淳也にも功の意図するところが見えてくる。
「田邊の代になってからカメラを作動させていたなら、映像が残ってる可能性がある。田邊が美月をここに呼び出したのはいつだって」
「一昨日の昼休みです」
 僅かながら興奮を含んだ声が素早く返ってくる。日付のデータを打ち込むと、しばらく画像を読み込んだあと、誰もいない会長室が映し出された。
「美月の友人のお陰だ」
 表示時刻は正午ちょうど。暫く早送りすると、ドアが開き人影が入って来るのが見えた。
 画像を止めて少し戻すと、扉付近に立ったままの美月と、椅子に腰かける田邊が画面に映し出された。
「美月に気付かれるとまずいから」
 そういうと功は、コードレスホンの片側を淳也に渡した。
「後ろの気配には気をつけて。どんな話が聞こえてきても、声はあげるな」
 念を押して、功がボリュームを上げていく。淳也はイヤホンを耳に差し込み、床に座り込んで画像を見つめた。

 映像の中の二人の会話が聞こえ始めると、淳也は田邊に対する怒りをどうにか抑え込むため、手を握り舌打ちをして、何度も息を吐き出さなければならなかった。
 何も感じていない筈などないのに、功は黙ってじっと指を組んだまま、鋭い目つきで画面を見つめている。
 やがて田邊ひとりが楽しげな会話の中に、美月の母親の話が出てくると、二人は一瞬だけ顔を見合わせた。
 予想が確信に変わる。
 ただその間も続いていた遣り取りは、少しずつ不穏な方向へと向かい始めていた。
 まるで挑発するかのように、田邊は美月に向けて、功の素行をしつこく語り聞かせている。淳也が少し気にするように視線を向けても、功は眉根を寄せたまま、微動だにせず画面を見ていた。
 やがて画面の向こうで田邊が、美月を扉に追い詰める様子が映し出される。
「おい、やめろ」
 思わず淳也が声をあげるのを、功が視線で止めた。カメラの角度からは覆い被さる後頭部に隠れてしまっていたが、田邊が美月に何をしたのかは容易に想像がついた。
「もう、いいでしょ」
 そう言うと淳也はイヤホンを放り投げた。怒りの持って行き場がないように部屋の中をうろつき、やがてソファーへと腰を下ろす。淳也が外した片方のイヤホンを拾い上げ、功は最後まで黙って画面を見続けていた。
「……みい」

 不意に淳也の声が耳に入り、咄嗟に画面を下に落として振り返る。功は、思わず舌打ちしたくなった。
 扉に寄りかかった美月の視線は、明らかにテーブル上のPCの画面に向けられている。
「みい」
 立ち上がった淳也が、慌てて美月の元に向かう。その様子を見つめながら、功は胸の内である決断をしていた。
「今の、何?……どうして、なんで、そんなのが」
 ようやく口を開いた美月は、こちらへ走り寄ろうとしてよろけた。淳也が咄嗟に手を差し出して、転倒する前に支える。
「淳ちゃん、ねえ、なんで……」
 淳也の腕にしがみついた美月は、顔を上げてそう言ったあと、気まずげに視線を外した。
 ソファーから立ち上がり二人のそばに近付いた功は、口を挟む間も与えずに、美月の肩と膝の裏に手を回しそのまま抱え上げた。
「……え?」
 両手を空に浮かせたまま、淳也は呆気に取られている。
「そんな足で歩いたら駄目だろ」
「嫌っ、下ろして」
 美月が身体を捩り、腕から下りようとした。
「下ろして。功さん、今の、どうして?」
「美月、あとでちゃんと説明するから、今は言うこときいて。落ちたら危ないだろ」
 功は落ち着いた口調で、だがきっぱりと言い聞かせた。まだ熱が完全に下がり切っているわけではなく、体力も回復していない美月は、功の腕の中ですぐに力をなくしくったりとする。
「ほらみろ、無茶するから」
 美月は口を結ぶと、顔だけを功の身体と逆方向に向けた。功はまるで悪びれた風もなく、何事もなかったかのように振る舞っている。
「淳也、寝室、連れて行くから」
 成り行きを呆然と見ていた淳也が、慌てて扉を開けベッドにかかった布団を捲った。
 そこに美月を横たえ、目を合わせようとしない拗ねたような美月の顔を見下ろしながら、功は彼女が初めてそんな表情を自分に見せていることに、こんな時だというのに喜びさえ感じていた。
 今はとにかく、美月の動揺や怒りを静めるのが先だ。功は彼女の顔を両手で挟むと、突然額と額を合わせた。
「功さんっ」
 焦る淳也の声が聞こえる。ほんの数センチ先にある目が驚きに見開かれるのを見つめながら、功は、つい今しがた目にした映像を思い出していた。
 夕べ何度も何度も美月が擦りつけ傷つけようとした唇は、擦傷が残りかさついて色が変わり、まだ腫れている。
 あの男がしたことを、全て消してやりたかった。このまま何度でも口付けて、あいつの痕跡など全部――
 目の前にある美月の瞳が揺れる。
 自分の身体に熱が篭るのを感じた功は、離れがたいと思う意思を引き剥がすようにして、美月と距離を取った。

「やっぱり、熱がまだ少しある」
 途端に顔を真っ赤にしながら「なんで」と呟き、美月は俯いてしまう。すぐそばから、これ見よがしな大きな溜息が聞こえた。
「俺がいること忘れてませんか。だいたい、あなたが熱をあげてどうするんですか」
 声のした方へと、美月がゆっくり顔を向けた。
「淳、ちゃん……」
 美月の顔が歪み、また俯いてしまう。淳也はゆっくり歩み寄りベッドサイドに立つと、下を向いてしまった美月の頭に手を乗せた。
「みい……怖かっただろ」
 頭が、左右に振られる。
「……ごめん、なさい、ごめんなさい淳ちゃん」
 美月は絞り出すような声で何度も繰り返した。
「もういい、いいから」
「私……許して貰えないかも知れないけど、でも、どうしても」
「そんなわけないだろ。それに罰を受けたなんて、そんな馬鹿なこと絶対に言うな」
「淳ちゃん」
「そうだ美月。嘘をついて罰をうけなきゃならないなら、淳也はとっくに地獄に落ちてる」
「あなたには言われたくありません」
 功に言い返す淳也の不満気な声に、美月が遅れて少しだけ笑った。笑いながら、その頬を涙がひとすじ流れて落ちた。
 淳也が、動揺したように目を開く。
 功は淳也の肩に手をやると、そのまま二人を残し寝室を後にした。

 しばらくの間、ポツポツと話す二人の声が隣室にも届いていた。
 美月に薬を飲ませる必要があることを思い出した功は、その間に、朝のうちに胃の調子が悪いからと言って家政婦に用意させておいた粥を、卓上用のIHコンロで温め始めた。

 幸いにという言葉は今の状況に決してそぐわなが、和美は、昨日から二条家の使いで遠方に出ていて、明日までは不在にしていた。
 功は今朝になってそれを知ったが、今になって考えてみれば確かに、夕べもしも和美が屋敷にいたなら、美月に起きたことを隠しおおすことは出来なかっただろう。
 いずれにせよ、あの怪我の程度を考えれば、全てを黙っていることは難しい。美月も恐らく、それはわかっているだろう。

 粥が温まるのを待って器によそった功は、それをトレイに乗せ寝室へと戻った。淳也と美月の間には、もういつもと同じ空気が戻ってきているようだった。
「さっきの事は、後でちゃんと説明する。でも薬を飲む方が優先だ。まずは少しでもいいから、食事を取って」
 功がトレイをサイドテーブルに載せると、少し硬い表情に戻った美月が、器に手を伸ばそうとする。
 ベッドの端に軽く腰掛けた功は、伸ばされた手を無視して、スプーンで掬った粥を少し冷ましてから、傷で腫れた口元へと運んだ。美月の後ろ、ちょうど功の向かい側で、淳也が呆れた顔をしている。
 だが功は何食わぬ顔で、美月の口の前でスプーンを揺らした。
「ほら」
 自分で食べられるからと、真っ赤になった美月がどれだけ言い張っても、功は手首に負担を掛けるなと言って引かなかった。
「みい、功様のお言いつけだそうだ。聞いてやれよ」
 苦笑いを浮かべた淳也に抵抗するだけ無駄のように言われて、諦めたのだろう美月は、伸ばしていた手を引っ込めた。
 いたって真面目な表情で粥を口にすることを促す功に、美月は何度も躊躇いながら、ようやく口をあける。満足げに頷いた功は、結局最後の一口まで、手ずから粥を食べさせていた。

 淳也は、そんな二人の様子を見ながら、いや美月のパニックを落ち着かせるように抱き締めていた功を見たときからずっと、戸惑いと共に複雑な思いを抱いていた。
 功が心のままに、そして美月もそんな功に心を開き、まるでずっとこんな風に過ごしてきたかのように見えるこの二人は、今までこの屋敷の中で、必要最低限の会話しか交わさず、目を合わせることさえ殆どなく過ごしてきたのだ。
 功はずっと、誰にも気付かれないように美月を気に掛けていた。表面上は冷たく無関心に振る舞いながら、ずっと美月を見守っていた。
 それがいつから別の想いに変わっていたのか。
 薄々は感じていた淳也が、はっきりとそれを認識したのは、由梨江の通夜の夜だった。

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