医師の言ったとおり、あの後美月の熱はかなり上がった。薬を飲んでいるため目覚めはしないが、何度も苦しそうにうなされていた。
功はそばにいて、汗を拭いタオルを変え水分を――時には口移しで飲ませて、明りを最小限に絞った薄闇の中で、汗を酷くかいて湿ったパジャマを着替えさせもした。
部屋の明りを絞ったのは、美月への配慮もあったが、寧ろ自分自身のためだった。
ぐったりとした身体を抱え込むようにして、眠ったままの美月を着替えさせる間、細心の注意を払っていても時に肌に触れてしまう。嫌が応にも、その感触を酷く意識してしまい、ほとんど息を詰めてしまっていた。
それでも、最後のボタンを留めようとしたところで、鎖骨に浮かぶ赤く鬱血した痕が目に入ると、功は手を止めた。
男が、美月につけた痕だ。
何もかもを、上書きしたかった。自分以外の男が触れた事実を目の当たりにさせる痕など、全て消し去ってしまいたい。
功は、そっとそこに指を這わせ、深く眠る美月の熱を持った滑らかな肌に唇を寄せた。
俺の方が質が悪いかもしれないな――そう思いながら、鬱血したその痕を舌でなぞり、そこに赤い印を重ねた。
一晩中起きて看ていたが、美月は朝まで目を覚ますことなく眠っていた。深夜より随分と呼吸は落ち着いてきている。
着信を知らせるバイブ音に携帯を確かめて、功は寝室を出ると鍵を掛けていた部屋の扉を開けた。
立っていたのは、淳也だった。
「入って」
部屋に入れるとすぐに再び鍵を閉める。淳也は、居ても立っても居られないように、美月の様子を功に尋ねてきた。
「今は薬で眠ってる。医者の話では、何とか……未遂だったみたいだ」
「やっぱり、誰かに襲われたんですね」
「それは間違いない」
淳也は拳を握り締め、怒りに震えた声を絞り出した。
「何で、こんなことに」
黙ってソファーに腰を下ろした功のそばに、やがて淳也が近付いてきた。
「功さん」
呼びかけに顔を上げる。
「みいは、どうしてあんな嘘を……」
いつも穏やかな表情に、今は苦悶の色が浮かんでいる。
「ゆうべ、功さん、俺にはわからないって言いましたよね。あれは、どういう意味ですか」
答えを待たず、問いが重ねられる。
「何が俺にはわからないって」
「淳也には両親が揃ってる」
功の言葉に、淳也は虚を突かれたような顔をした。
「美月が、淳也やようやく出来た友達に嘘をついて裏切ってまで知りたかったのは、母親の事だ」
「本当にそれだけなんでしょうか。俺たちを騙して嘘をついてまで?……それなら、言えばいいじゃないですか。なのに、なんで」
「経緯がどうだったのかはわからない。けれど、母親の情報を聞いたという話は嘘じゃない」
詳細を説明していないにも関わらず、わかったかのように話す功に、淳也は苛立ちも露わに声を上げた。
「何故そんなことがわかるんですか」
「嘘をつくのに、母親の事なんて使わないだろ。美月は」
「なら、俺や友達より、自分を捨てた母親が大事だってことですか」
当たり前のように淡々と話す功に、淳也は苛立っているようだった。誤魔化すこともまともにぶつけることもできずに、手を握り顔を背けている。いつもならもっと上手く隠しおおせるそれができないくらい、淳也が動揺しているのが伝わってくる。
「そうじゃない。淳也だってそうじゃないってわかってるだろ」
「今じゃもう、わかりません。なんでそう断言できるんですか。みいがそう言ったんですか」
「罰だって」
淳也は弾かれたように目を瞠り、功を見つめた。
「美月は、罰だってそう言った」
「罰、って……」
「あいつがお前に平気で嘘を吐いてたと思うか? 平気で友達を裏切ったって」
「罰って、俺達に嘘をついたから? そんな……馬鹿な」
「美月に、その身体を代償にするほどの罰を与える資格が誰にある」
淳也は顔を俯けた。
「美月は何も言ってない。でもな淳也」
功は静かに言葉を続けた。
「わかるんだ。美月が母親を求める気持ちの強さが。当たり前のようにそれを手にしている淳也には、きっと想像がつかない。自分を捨てた母親に、大事な人たちを騙してでも会いたいと渇望するそんな気持ちは、きっと、頭では理解できても心の底からはわからないんだよ」
「なら、功さんに何でわかるんですか。自分は何でもわかってるって言いたいんですか。俺だってずっとみいを見守ってきたんです。なのになんで、俺にわからないことが――」
そこまで口にして、淳也は気が付いた。
――同じなのだ
この家の中で。実の父親と母親が側に居ながら、功にとって彼らは父や母ではなかった。主である父と、そして幼い頃から親子としての情を交わすことなく、触れ合うことも話をすることもほとんどないまま、死んだ娘の亡霊に取り付かれていた母親。
功も美月と同じ、親のいない子どもだった。
その境遇が余りにも違うために。淳也が物心ついた幼い頃から、功が余りにも自然にそれを受け入れて暮らしていたために。普段は意識することがない功の抱える孤独は、美月が抱える孤独とずっと共鳴しているのだ。
顔を伏せた淳也の首筋が、薄く赤らんでいく。
「こんな気持ちは、わからない方がずっと幸せなんだ。淳也、お前が悪いわけじゃない」
功が少しだけ微笑んだ。
「そばにいるのがそんなお前で、救われているのは美月だけじゃない」
「俺は……」
「淳也。それで何がわかった」
功は、この話はもう終わりだというように、鋭い声でそう問い掛けた。
握りしめた手をゆっくりと開き、強張っていた腕の力を抜いた淳也は、功の意を汲み取り、深呼吸をして気持ちを切り替えた。
そうして、夕べから今朝にかけて調べた事を、順を追って功に報告する。藍から聞いた話と絡めて、康人に今調べさせている田邊正樹の事も詳しく話した。
昨夜の美月を見ているだけに、本当は淳也以上にぐちゃぐちゃな感情を腹の内に抱えている功は、けれど表情を変えることなく、黙ってその報告を聞いていた。
田邊が美月を生徒会室に呼び出していたようだ、という話を伝え、功が何かを考えるような表情を見せたそのタイミングで、淳也の携帯に康人からの連絡が入った。
「功さん、康人がデータを送ったと言ってます」
PCを立ち上げ、康人からの転送データを確認する。それを開き目を通した二人は、視線を合わせた。
「こいつだ」
いったいどうやって調べたのか、田邊正樹の隠された経歴が全て晒されている。
田邊正樹は、田邊家に養子縁組される以前に、戸籍上の名前が三度変わっていた。養子縁組と離縁を繰り返し、途中で滅失した戸籍まで使用された痕跡もある。
出自を隠すために、養家かもしくは田邊正樹本人がそのような手順を踏んだのだろうか。
康人は、遡るのが困難な田邊のそんな過去をこの短時間できれいに調べ上げていた。
田邊正樹――従前の名は『高宮正巳』
生後間も無く父親は蒸発、育児を放棄していた母親の元から保護されたのは、小学二年生の頃である。保護された後、彼が入所したのは『広葉野学園』――かつて、美月がいた施設だった。
「まさみ……って、この名前」
淳也が、呆然としたように呟く。
「間違いありません。こいつがみいを」
「可能性はかなり高いが、まだ確実とまでは言えない。ただ、美月とこいつに接点があったことは確かだ」
「じゃあこいつを問い詰めれば」
先を急ごうとする淳也を功が制した。
「まだだ。もっと入念に調べた上で追い詰める」
「でも」
「もう一つ調べたいことがある。――ちょっと待て」
功が、淳也の発言を遮るように手を上げて、視線を僅かに後ろへ向ける。その時、寝室から微かに悲鳴のような声が聞こえた。
動きを止めた淳也の横をすり抜け、功は素早く寝室に向かった。
「こう、さん? ……なんで?……私」
ベッドの上で上半身を起こし、怯えたような表情で功を見上げた美月は、そのままゆっくりと視線を落とし腕に巻かれた包帯を見つめている。
薬でぼんやりしていた頭が徐々に覚醒し、何が起ったのかを思い出したのだろう。美月の身体が少しずつ震え始め、自分の身体を抱き締めようとする。
パニックを起こす前に、功は美月をそっと抱き締めた。
「美月、大丈夫……。大丈夫だ。びっくりしたんだな。落ち着いて、何も心配いらない。大丈夫だから」
刺激しないように、ゆっくりと優しく声を掛け身体を揺らす。
「ゆっくり、落ち着いてゆっくり呼吸するんだ」
美月の震える腕が功の背に回されて、服をぎゅっと握り締めた。
「みぃ……」
小さな声に寝室の入口に目をやると、呆然とした表情で淳也が二人を見ている。声に反応した美月が顔を向けようとするのを、功はやんわりと阻み、自分の胸に取り込んだ。
「そうだ、ゆっくり呼吸して。何も心配いらない」
声を掛けながら、淳也に視線だけを向け、外に出ていろと伝える。動揺した様子の淳也は、後ろに数歩下がりドアの影から姿を消した。
何度も落ち着くようにと言い聞かせ、深い呼吸を繰り返すうち、美月はまた眠ってしまったようだった。しばらく様子をみてから、そっとベッドに横たえ寝室を後にする。
淳也は、ドアの横の壁に凭れ掛かり座り込んでいた。寝室から出てきた功を見上げるその目は、赤くなっていた。
何も言わず、首を振ってソファーへと誘う。
「みいは……?」
「大丈夫だ。目を覚まして驚いたんだろう。少し落ち着いて今はまた眠った」
「本当に、大丈夫なんですか」
目の当たりにした美月の様子に、淳也もかなり動揺しているようだった。
「大丈夫だと俺が断言することはできないよ。大丈夫だと思いたいだけだ。でも、淳也」
「……はい」
「俺は、美月をこんな目に遭わせた奴を絶対に許さない。許したりしない」
「俺も、です」
「次に美月が目を覚ましたときにちゃんと会わせてやるから、勝手に部屋には入らないで欲しい」
「……わかりました」
淳也が頷くのを待って、功は、プリントアウトされた康人の調査データの中から、一枚の紙を取り出した。
学内で撮られたらしい制服姿の田邊の写真の上に、指が置かれる。
「こいつが犯人かどうかがわかるデータが、もう一つあるかもしれない」