本編《Feb》

第二章 三日月5



 翌朝淳也は、金沢藍の家のそばに車を停めていた。夕べは、一睡もできなかった。
 恐らくそろそろ藍が通学のために家を出て来る時間だろうと、時計と玄関のドアを見つめていると、高等部の制服を着た女子生徒が門から出てくる。学園の制服を着た彼女が、家の中に向けて声を掛けるのが見えた。
 淳也は、家を出た藍が車の横を通り過ぎる直前、ドアを開けて車から降り立った。
 突然目の前に現れた人影に、彼女の足が止まる。不審げに上げられた目が、淳也を認めて見開かれた。
「金沢藍さん、だよね」
「……えっ、嘘っ」
 声を上げ両手で顔を押さえる様子を見つめながら、淳也は、出来るだけ穏やかな口調を心がけて話しかけた。
「その感じじゃ俺の事知ってるのかな。突然すまないんだけど、ちょっと急を要する事態が起こって、どうしても君に聞きたいことがあるんだ」
 僅かに、藍の顔が強張る。
「それって、美月のことですよね」

 すぐにはそれに答えず、学校まで送る車の中で話すから、乗ってもらえないかと頼む。車を発進させると、淳也が口を開く前に藍の方から問いかけてきた。
「美月に何かあったんですか」
「……どうして」
「どうしてって、こんなこと、それしか考えられないですよね。それにさっき香川さん、急を要する事が起こったって」
「うん……そうだね」
「いったい何があったんですか」
 助手席から問いかける藍は、真剣な表情で淳也を見つめている。
「手短に聞くけど、本当の事を答えてくれるかな」
「……はい」
 戸惑いと警戒を滲ませたような返事が返ってくる。構わず続けた。
「君の友達の知り合いに、美月と同じ施設で育ったっていう子がいると思うんだけど。確かまさみちゃん、だったっけ。最近……いや昨日その子と美月を引き合わせたか、もしくは連絡先を教えたりした?」
 しばらく待っても返事がない。チラッと彼女を横目で見ると、今度は本当に怪訝な顔でこちらを見ていた。
「金沢さん?」
「いったい何の事を言ってるんですか、美月が施設って……それ」
 淳也はブレーキを踏み込み、後続車がクラクションを鳴らして通り過ぎていくのを聞きながら、藍の顔を見つめた。

「ねえ、香川さんどういうことですか、私の友達のって、それ誰のことですか」
 すぐに車を歩道に寄せて停めた。戸惑ったように自分を見つめ返す藍に向き合うと、淳也は半ば答えをわかっていながら、もう一度尋ねた。
「金沢さん。君は美月から、小さい頃施設にいたっていう話を聞いてるよね。彼女の名前がもともとは、美月でないってことも」
 瞠目した藍の反応は、それだけで淳也の出した答えを肯定するものだった。
「それ……本当の事ですか? 美月が施設でって……あ、でもだからって」
「わかってる」
 小さく溜息を吐く。
「香川さん」
 しばらく呆然としていた藍が、口を開いた。
「美月が、香川さんの家の養女だっていうのは何となく、あの……学校の皆の噂で。でも、詳しい事は知らないし美月にも聞いた事ありません。さっきの話……私の友達の知り合いに美月を引き合わせるっていうの……美月が、そんな話をしてたんですか?」
「……それは」
 どう答えたものかと一瞬躊躇すると、藍が声を上げた。
「ちゃんと聞かせてください。美月に何かあったんですよね」
 腕を掴んでくる彼女に目をやる。真っ直ぐな力の込もったその瞳を見ていると、藍が本気で美月を心配している気持ちが伝わってきた。
 その手が淳也の腕から離れ、ふと何かに気が付いたように視線が淳也を見つめて止まる。
「昨日の放課後、美月は確か用事があるからって、授業が終わるとすぐに急いで一人で教室から出ていきました」
「用事って? 何か他には言ってなかった」
 藍は硬い表情で小さく首を横に振った。
「私ともあんまり……話したくなさそうだったし。避けられてる感じで」
 避けなければならない理由が、美月にはあったのだろう。
「ここ最近、美月の様子が少しおかしかった。何か隠してるみたいだった。君がどこまで美月の境遇を知っているのかはわからないけど、彼女は自分の事で周りの人に迷惑を掛けるのを極端に嫌がるところがある。そうさせているのは、俺たちを含めたあの家の大人達だ。美月は何かあっても自分から俺達に助けを求めたりは絶対にしない。だから……ちょっと卑怯な手で追い込んで、何を隠しているのか問い詰めたんだ。その時――」

 淳也は手短に、昨日の朝、美月が淳也に聞かせた事を藍に話した。藍は時々否定の言葉を口にはしたものの、それ以外は頷くこともせず黙ってその話を聞いていた。
「美月がその子に会う時には、俺も一緒に行くって約束させた。これまで美月は、心配を掛けないために大丈夫だと嘘を吐くことはあっても、人を騙したり約束を違えたりしたことはなかったんだ。だから、俺や君のような彼女にとって大切な人を欺いてみせるなんて、考えもしなかった」
 藍も、美月が藍の名を使って嘘をついていたことに、少なからずショックを受けている様子だった。何より、側にいながら美月の事を何も知らなかったことが、辛そうだった。
「大切な人……なのかな、私。だって、なんにも知らなかった。私、美月の側にいたのに」
「それは俺にだって言えることだ。いやむしろ、俺のほうがずっと美月のことを見てきたのに。なのにこんなに簡単に」
「それで……美月に何が」
「昨日……誰かに襲われたらしい」
 藍が息を呑む音がした。辛うじて、声を出すのを抑えたようだった。
「今はそれしかわからない。本当は何があったのか、今どういう状態なのか、俺にもまだわからないんだ。今はただ、そばについてる人に任せるしかない」
「そばにって……誰が?」
「二条功だよ」
 辛そうに顔を歪めながら頷いた藍に、話を続けた。
「だからとにかく、昨日美月が誰と一緒にいたのかを突き止める必要がある。それで今朝一番に君を訪ねたんだ。きっと美月は、昨日話していた君の友達の知り合いって子に会いに行ったに違いないって」
「そんな話は」
「そうだ。当てが外れた。まんまと美月の嘘に騙されたんだ」
「そんな言い方って」
 藍が少しムッとしたように声を上げた。
「けれどそうだろ。俺も君も、そして俺達以外にも、美月を本気で心配している人がたくさんいる。なのに……。どんな事情であれ、美月が俺達に嘘をついたのには違いがない」
 淳也は、美月の話を鵜呑みにしてしまった自分に腹が立っていた。話の内容に嘘はないだろうと判断し、昨日あれから、美月には一度簡単な連絡を入れたきりだった。
 あれだけ言い聞かせたのだからと、しつこくする方が逆効果だとそう考えてしまったことが、裏目にでてしまった。

 無言のまま、ハンドルを握ると車を動かし、再び車列へと滑り込ませた。
「……最近、美月の様子がおかしいって、私も思ってました」
「え?」
 しばらく黙っていた藍が、やがてポツリとそう漏らした。
「何か隠してるって感じがして。昨日だってお昼から学校に出てきたけど、ずっと上の空で、私と目を合わさないように、避けてるみたいだった。昨日だけじゃなくって、最近あまり元気がなかったから、気にはなってたんです。けど、私はまだ美月と知り合ってからたった三か月くらいで……だからこんな時、どこまで美月を問い詰めていいのかって、迷ってしまって」
 声が、僅かな震えを孕む。
「ちゃんと私が、もっと聞いてれば……」
「君のせいじゃない。金沢さんだからじゃなくって、聞いてもきっと、美月は誰にも話さなかったはずだよ」
「でも」
「他には、何か変わったことに気付かなかった?」
 一度口を噤んだ藍は、しばらく考えを巡らせている様子だった。

「香川さん」
「ん?」
「新しい生徒会長の田邊正樹さん、ご存知ですか?」
「俺が?」
「はい」
「知ってることは知ってるけど」
「あの人と、昔からの知り合いとか、そういうのですか?」
「いや、会長室を引き継ぐ時に少し顔を合わせたくらいだけど。彼がどうかした? もしかして、田邊が美月に付き纏ってるのか」
「付き纏うっていうか……」
 藍は小さく首を振る。
「じゃあ、美月と田邊さんが前から知り合いだっていう可能性はありますか」
 淳也は少し考えてから、答えた。
「いや、ちょっと考えにくいな。田邊が学園に転入してきたのは確か一年程前だよね。高等部に上がってからのことは俺より君のほうが知ってるだろうけど、美月は中等部のころは一人でいることがほとんどだったし、その頃高等部の、ましてや転入してきたばかりの田邊と知り合いになる機会はなかったんじゃないかな」
 横目で見ると、藍はしばらく難しい顔を見せていた。
「やっぱり、田邊が何か関係してるとでも?」
「いえ……わからないんです。けど……」
「けど何」
 焦れて、先を促してしまう。
「あの、最近私、田邊さんが美月を見てるように思えることがあって。逆に、美月はあの人を避けてるように感じられて、それで美月に聞いてみたことがあるんです。その時は美月、知らないって否定してました。でも、一昨日の昼休みに、田邊さんが教室に来て美月を呼び出して」
「呼び出した?」
 淳也は、そういえば一昨日の朝、美月を学園まで送った帰りに学園の門の手前で自分に頭を下げてきたのが、田邊だったことを思い出した。
 徐々に確信のようなものが芽生える。きっとあの男が何か関わっている。優しげな女性のように柔和な顔立ちをした田邊というあの男が。
「突然教室に現れて、かなり強引な感じで……って言っても、周りはそんな風には思ってなくて盛り上がってたけど、美月を連れてどこか、多分生徒会長室にでも行ってたんじゃないかって思うんです」
「どんな様子だった」
「周りの子達はみんな、きっと田邊さんが美月に告白するんだって騒ぎ立ててました。そんな風に匂わせてたし」
「金沢さんは、そう思わなかったの?」
「私は、なんて言うのか、美月がすごく怯えてるような気がして」
「怯える……」
「一緒に行くっていったんです。でも一人で行くからって。昼休みが終わってからもずっと元気がなくて。何の話だったのかって聞いても、香川さんの事を聞かれただけだって」
「俺?」
「はい。同じ生徒会長としてって。でもそんなの……」
「そうか。ありがとう。凄く、ありがたい情報だ」
「田邊さんが関係してるんでしょうか」
 淳也は僅かに首を横に振った。
「まだわからないけど、その可能性は高そうだ。それに今は、どんな些細なことでもいいから、何か手がかりになりそうな情報が欲しい」

 やがて車が学園に近づいたところで、藍が車を止めるように言った。
「ここで、いいです。香川さんと一緒なところを誰かに見られたら、色々と面倒なんで」
 率直なその言葉に、淳也は少し笑みを浮かべた。
「そう。じゃあこの辺りで降ろすよ」
 車を止めると、シートベルトを外した藍がもう一度淳也へと視線を向けた。
「田邊さんの事、私も少し探ってみます」
「いや、君は田邊に近づかない方がいい。美月のことを考えれば、用心するに越したことはないから」
「でも」
「ここからは俺達に任せてくれないかな。君にもしも何かあれば、美月がもっと辛い思いをする」
「……わかりました」
「ありがとう」
 藍は、微かに首を横に振るとどこか泣きそうな表情を浮かべた。
「美月……大丈夫でしょうか」
「わからない。これから、様子を見に行ってくるよ」
 頷いた藍は、美月の様子がわかれば知らせて欲しいと淳也に頼み、互いの連絡先を交換した。
「今日は突然ごめん。それから、色々とありがとう」
「また何か思い出したことがあれば、私も連絡します」
 頭を下げてから、藍は車を降りた。淳也は窓の外に向けて手を上げてから、彼女が立ち去るのを待たずに車を出した。

 しばらく走らせてから、車を止めて携帯を取り出す。今朝まで功のマンションで一緒にいた康人を、もう一度呼び出した。
「……ん、なに……?」
 眠ったばかりのところを起こされ、不機嫌さを隠そうとしない声が返ってくる。
「今すぐに調べて欲しいことがあるんだ」
「ねえ、今寝たばっかなんだけど」
「康人仕事だ。いいから起きろ。これは功さんからの命令だと思ってもらって構わない」
 緊迫した淳也の口調に、不服そうではあるがもぞもぞと起き上がる気配がする。
「で、何?」
 功の住まうマンションの一室をねぐらにしている康人は、高等部の頃からの淳也の友人で、功や淳也と同じ大学でシステム工学を専攻している。もともと恐ろしくコンピューターに精通しており、その能力を高く買った功が、行く行くは自分のスタッフに加わることを望み、康人もその話に合意している。
 今でも何かと康人の力を借りて、時には非合法な方法で情報を引き出すこともあった。
 かつて康人は、二条のシステム会社が管理する二条HDのサーバー内に侵入し、データを改竄してみせたことがある。功がけしかけたそれは運用テスト段階のものだったが、以来、康人は学生ながらシステム会社への出入りを特別に許され、時には助言を求められるような立場にもなっている。

「うちの高等部に、田邊正樹という男がいるのを覚えてるか。今の生徒会長の」
「お前の後に会長になったあのかわいい子ね。何、そいつを調べればいいの」
「出来るだけ早く、正確な情報を入手して欲しい」
「なんか、みいちゃんに関係するわけ?」
「それを知るために調べる必要があるんだ。わかり次第すぐに連絡してくれ」
「了解っす」
 軽い答えの後、通話が切られた。
 淳也はもう一度、今度は別の番号を呼び出した。電話に出た功に藍の話を手短に報告し、今から屋敷に戻ると告げた。


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