本編《Feb》

第二章 三日月4



 医師の到着を知らせる着信に対応し、功は、泣きはらし不安げな顔をした美月に、医者を呼んだことを告げた。
 せめて診察と治療を受けて欲しいと、できるだけ落ち着いた口調で説得する。初めは抵抗した美月も、こんな時間に医師が来てくれたことへの申し訳なさがあったのだろう、諦めたように頷いた。

 奥にあるベッドルームに彼女を寝かせてから、医師を迎えに行く。部屋に一人にしてもあの足では出て行く事は難しいだろう。それにきっともうそんな体力も残ってはいない。
 防犯カメラを一時的にダミー画像に切り替えて、医師には裏門から中へと入って貰った。
 現れたまだ若く見える医師は、『倉知穂花』と書かれた名刺を功に渡してから、事情を聞く間もずっと硬い表情を崩す事はなかった。
 けれど寝室に入る直前には、切り替えるように、その表情を患者を安心させるような柔らかなものに変えた。

 寝室の扉が閉ざされてからの時間は、ただ待つことしかできない功にとって、とても長いものに感じられた。ソファーに腰を下ろし、じっと頭を抱えるように目を閉じて待つ間、酷い有様だった美月の姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。
 どれくらいそうしていたのか――実際にはそう長い時間ではなかっただろうが――ドアが開く音に顔を上げた。
「……どう、でしたか」
 診察を終えて出てきた倉知に問い掛けながら、どのような答えが返ってくるのかと身構える身体に力が入る。しかし彼女は、口元を引き結び真っ直ぐに厳しい目を功に向けるだけだった。
「その前にお聞きしたい事があります」
「……はい」
「本来は先にお聞きするべきことでした。あなたは、彼女とはいったいどういったご関係ですか」
「どういった?」
「診察結果は誰にでも簡単にお聞かせすべきものではありません。今回のようなケースではなおさら。特に彼女は未成年ですし、本来はご両親にお話しすべきことです。それに、もしかしたら彼女を傷つけたのはあなたである可能性もあります」
 思いがけない言葉に一瞬不快感が込み上げる。だがよくよく考えてみれば、この医師は信頼に値するということだ。ここがどういう家か、功がどういう立場の人間か、彼女が知らない筈はないのだ。
 功は倉知の目を正面から見据えて、迷うことなく答えた。
「美月は。僕にとって誰よりも大切な人です。彼女の身元は複雑で本当の両親というものがいない。けれど彼女は幼い頃からこの家でずっと暮らしていますし、身内のようなものだと思って頂いて構いません。彼女を……美月をこんな目に合わせたのは、僕じゃない。何なら、僕のことも含めて大河内先生に確かめて貰っても構いません」
 医師の雇い主でもある大河内の名を出すと、少しだけその顔から険しさが消えた。それでも、真偽を確かめるように功の目をじっと見つめていた倉知は、やがて表情を変える事もなく、わかりましたとだけ答えた。

 半ば本気で疑っていたのだろう――そう考えると、この部屋ではじめに見せた険しい表情にも説明がつく。
「それでは、彼女に暴力を振るった人物に心当たりはありますか。美月さんはそのことについては口を閉ざしたままでした。警察に届けるつもりもないと。それで、本当に構わないのですか。いずれにしても、未遂とはいえ本人がそれを望まなければ現実的には難しいかとは思いますが」
「美月は診察を受ける事さえ嫌がっていました。他の誰かを呼ぶことも頑なに拒んだ。誰にも絶対に知られたくないと。警察に届けてもきっと話したりはしないでしょう。心当たりについては……今調査中です。このままにするつもりはありません。見つけたら……俺が殺してやりたいくらいだ」
 話しながら手を握り締める功を、じっと倉知が見つめていた。
「今はまず。彼女の精神状態を落ち着かせることが先決でしょう」
 なにかに納得したのだろうか、ようやく眼差しから力を抜いて小さく頷いてみせた医師は、功に美月の診察結果を報告し始めた。

 身体の数箇所に掻疵痕や、傷、打身などの痕があること。いくつかの擦傷は、美月が自ら浴室で身体を強く擦ったために出来たものだということ。
 診察の結果、わずかに傷があるものの挿入された形跡はなかったこと。
 捻挫も傷も酷く、雨に濡れ身体も冷えていたため、熱が出ていると告げられた。抱き締めていた彼女の身体が熱かったことを思い出す。風呂で温まったのかと深く考えていなかった。いや、考える余裕がなかったのだろう。
 詰めていた息を、功はようやく少しだけ吐き出した。胸の中ではずっと、不安や安堵、そして怒りなどの複雑な感情が綯い交ぜになっている。
 倉知が施した処置や処方した薬の説明を続けている間も、ともすればそういった感情に引きずられそうになる。
「大丈夫ですか?」
 気遣うような口調でそう声を掛けた倉知は、功の顔色が青ざめているのを見咎めた様子だった。

 今夜だけでも看護師を手配しようかという申し出を、自分が側にいるからと断わる。
「わかりました。あなたを信じて彼女をお任せします」
 帰る間際、初めて功にぎこちないながらも笑みを見せた倉知は、明日また来ることを告げて、屋敷を後にした。

タイトルとURLをコピーしました