本編《Feb》

第二章 三日月3



 水音が聞こえ始めたのを確認し、椅子に腰かけると額に手を当て大きく息を吐く。指先がまだ微かに震えていた。
 携帯を取り出し、淳也を呼び出す。数度のコール音で電話が繋がった。
『はい』
「昨日美月から何を聞いた」
 のっけから前置きもなく本題に入る功の声色に、不穏な響きを感じたのか淳也が息を飲む気配がした。
『どうしたんですか、何かありましたか』
「わかってる事だけで構わないから手短に話せ」
 問い掛けには答えず苛立ちを露に命令する功に、淳也は緊迫した事態を感じ取り、昨日の朝美月から聞いた話をかいつまんで報告した。
 それは――美月の母親が、施設に彼女を訪ねて来たらしいという話だった。

 美月は、彼女がそれを知ることとなった経緯を、淳也に話したのだという。
 美月には、ここに引き取られる時、香川と交わした約束があった。
 自分が施設で育った事を外部の人間に口外しない。園の事は忘れる。そして、母親を探さない――と。
 小さな子どもに科すにはあまりにも酷なその約束事を、これまでずっと守り通してきた美月は、だから母のことを聞いたとき、淳也に何も話そうとはしなかった。
 誰にも内緒で、その情報をもたらした人物――美月と同じ施設の出身だという他校の生徒――に、会いに行くつもりだったと言うのだ。
 黙って話を聞いていた功は、淳也が話し終えた後もしばらく沈黙していた。
『功さん、美月に何があったんですか、俺今すぐ戻ります』
「戻らなくていい。朝になったら美月の話に出てきた友達に会って、その話の真偽を確かめて来てくれ。それから――」
『はい』
 一瞬の沈黙に何かを感じたのか、淳也の返事も固い。
「今すぐに、うちが使ってる婦人科の先生を屋敷に寄越して。出来る限りすぐに、女の先生を。絶対に誰にも知られないよう口止めするのを忘れるな。アフターピルと、睡眠導入剤も用意して貰ってくれ」
『……それって』
 淳也が息を呑み絶句する。
「本人は未遂だと言い張ってる。だけど事がことだけに念のためにだ」
『いったい何が、ていうか誰に』
「美月の夕方からの足取りを調べる必要がある。さっきの話が本当なら、恐らく昨日のうちにその話に出てきた施設で一緒だったっていう子に会いに行ってるはずだ」
『すいません。俺の責任です。信用出来る話かわからなかったので、先に裏付けをと考えたのが甘かった。絶対に一人で会いに行かないと約束させたのに……』
「謝罪はいい。それに淳也、お前にはわからないよ」
『それはどういう意味』
「また連絡する。それまでに、出来る限り調べておいて」
『功――』
 功はいつもより抑揚を抑えた声で告げて、淳也の声を遮り通話を切った。そうして、手にした電話を両手に握り締めて、手元をじっと見つめた。
 今、その表情を見たものを、視線だけで殺してしまうのではと思える程の強い怒りを宿した瞳で。
 何度目かわからない深いため息を落とし、顔をのろのろとバスルームの方へ向けた。淳也から聞いた話を思い返して、どこか不自然なところがないかと考えてみる。
 どんな思いがあったとしても、美月が容易く香川との約束を違えることは考えにくい。だから恐らく母親の話は本当なのだろう。彼女の性格からして、そんな話を使って嘘をつくとは思えない。

 考えを巡らしてどれくらいたった頃か、ふと、水音が止んだはずのバスルームがやけに静まり返っている事に気がついた。
 バスタブに浸かっているのだろうと考えたとき、電話が鳴り淳也から医者の手配が出来たという連絡が入った。三十分もあれば到着する予定だという。
 近くまできたら功の携帯に電話を入れてもらうように指示を出し、心配で居ても立ってもいられない様子の淳也に、今度は少しだけ落ち着いた口調で、また連絡するとだけ告げて電話を切った。
 本当ならば、美月の言葉を鵜呑みにしたりせずに、医師の診察を優先させるべきだったのだろう。誰も呼ぶなという懇願を聞き入れるべきでなかったことも、頭ではわかっている。
 だが、冷静でいられる状態でなかったのは、功も同じだった。美月の前で動揺を隠し振舞うことが、精一杯だった。
 濡れて身体が冷え切った状態の美月をそのままにしておくことも、彼女の懇願を無視して誰か人を呼ぶことも、出来なかった。
 医者が来るまでに美月を風呂から出しておかなければならない――。
 顔を上げた功は、重い気持ちのまま立ち上がり、バスルームに通じる外側のドアをノックした。
「……美月」
 中からは、何の反応も返ってこない。もう一度大きめにドアをノックして声をかけてみたが、物音ひとつせず静かなままだ。
「美月……ちょっと入るよ」
 そう声を掛けてしばらく反応を待ってみたが、やはり何も返事がない。眉根を寄せた功は、そっと扉を開いた。
「美月?」
 中は静まり返っている。バスルームの硝子ドアの前まで近付くと、曇り硝子越しに白い肌がぼんやり浮かび上がっている。バスタブではなく、タイルの上に座り込んでいるようだった。
 声が聞こえていないのだろうか。ガラス越しとはいえ、人が入ってきた気配に気が付かないとも思えないが、中の人影は動く気配を見せない。もう一度ドア越しに美月に呼び掛けてみるが、反応する様子がなかった。
 いよいよ何かおかしいと、焦りながらガラス戸を叩いてもう一度呼び掛ける。ようやく中の人影がゆっくりと動くのが見え胸を撫で下ろしたが、その後もなにも反応がない。
「美月、大丈夫か? そこにいるんだな」
 返事がない事に更に不安が込み上げる。躊躇ったが、このままでは埒が明かない。
「……ここ、開けるよ。いい?」
 取っ手をゆっくり手前に引くと、横に滑った扉が静かに開いた。ぼんやりとこちらを見ている美月の目は、虚ろで何も映していない。
 透き通るように白い肌のあちこちが、ひどく擦ったように赤くなり、至る所に薄っすらと鬱血した箇所や傷が浮かんでいる姿が痛々しい。
 その時、茫然としていた美月の瞳が少しずつ焦点を取り戻す気配を感じて、功は何とか視線を美月の裸体から引き剥がした。
 こんな時だというのに、自分が男であることを呪いたい気分だった。
 すぐに明かりを薄暗く落とすと、目を逸らしたまま、広げたバスタオルで美月の素肌を覆い隠した。

「……やっ」
 正気に戻ったらしい美月が、声を上げて顔を逸らす。首筋から顔が朱に染まっていく様子に、功は深く息を吐き、身体の向きを彼女の肌が目に入らないように変えた。
「悪い……何度も声は掛けたんだ。外に出られるか?」
 努めて冷静に聞こえるよう意識した口調で問いかけた。少しだけ顔を向けると、俯いたまま美月が小さく頷く。
「じゃあ、ちゃんと髪を乾かしてから出ておいで」
 そう告げて、立ち上がり部屋へ戻ろうとした時だった。
「……痛っ」
 声に振り返ると、先ほどより少しドア寄りに身体を向けたまま、美月は右の足首を押さえていた。
「どうした?」
 何でもないと首を振るが、美月が押さえた足首は、目に見えて腫れている。こんな状態に今まで気が付かなかった事だけでも、彼女も功も普通の精神状態でないのがわかる。今は、躊躇ってなどいられなかった。
「俺が部屋まで連れて行くから、その間だけ我慢できるか?」
 微かに首を横に振った美月は、けれど足を動かした拍子にまた痛みに息を漏らし顔を顰めた。
「この状態じゃ一人で立ち上がるなんて無理だ。美月、俺が嫌ならやっぱり誰か女の人を呼んでくるから」
 屈み込んで出来るだけ穏やかな口調で話しかける。美月は、訴えかけるような目で強く首を横に振った。
「なら……少しの間だけ、触れるけど大丈夫か」
 それ以外に選択肢はないとわかってはいるのだろう、しばらくすると真っ赤になりながら小さく頷く。
「バスタオル、しっかり巻いてて」
 声を掛けてから、棚からバスローブを取り出し、タオルの巻かれた身体を更に覆うようにして被せる。そうして、身体を屈めると功は美月の顔を覗き込んだ。
「俺の首に手を回してつかまって。本当は触れずに運んでやりたいけど、それはさすがに俺にも無理だから」
 少しでも脅えさせないように、恐怖心を煽らないようにと、笑みを浮かべる。美月の目が少し見開かれ、じっと功の目を見つめた。
 暫くするとその瞳が戸惑うように揺れ動き、また顔を俯けてしまう。
 小さく頷いた美月の左の手首を緩く掴む。手に触れた瞬間ビクッと身体を震わせるのがわかったが、気付かぬふりをして肩に沿わせた。
 右側の手首にははっきりと強く握られた指の跡がついており、この手を掴んだ見知らぬ男の存在が脳裏に浮かび、心臓に焼かれるような痛みが走る。それを頭の隅に押しやるために、美月に悟られないように一度強く目を閉じた。
 抱き上げるために引き寄せると、美月の身体が強張るのがわかる。ついさっきあんな目にあったばかりで、本当は男の自分に触れられるのは堪らなく怖いだろうと、居た堪れない気持ちになった。
「ごめん、少しの間だけだから」
 美月が誰をも呼ぶことを頑なに拒む以上、今の状態の彼女をここから連れ出す事は功にしかできない。
 膝の下と背中に手を回し抱き上げると、首に回された手に力が入り、躊躇うようにしがみついてくる。
 功は思わずその身体を、抱き締めるように引き寄せていた。
「重くて、……ごめんなさい」
 小さく声を出す美月の吐息が咽喉元を掠める。
「……馬鹿。軽すぎるくらいだ」
 笑って気を逸らしながら部屋へと戻り、ソファーへ腰をかけさせると、手にしていたバスローブの紐を手渡した。
 
「ドライヤー持って来るから、濡れたバスタオルを抜いてバスローブに着替えておいて」
 バスルームへと折り返すと、功はしばらくの間を置いて聞こえてきたカサカサとした音が止むのを待って、ソファーの方を盗み見た。バスローブ姿になった美月は、口の辺りをしきりに拭っている。
 部屋へと戻った功は、美月の正面に回ると、唇を強く擦っている手をそっと掴んだ。擦りすぎて真っ赤に腫れた唇は、赤黒くなった口角の傷からまた血が滲み出ている。
 手を掴んだ功を見上げた美月に向けて、ゆっくりと首を横に振ってみせた。
 もう一度バスルームへと戻り、タオルを水で湿らせ戻ってくると、傷ついた唇にそれを当ててそっと血を拭き取る。
「こんなになるまで擦ったら駄目だ」
「……だって……」
 どうした、というように下から美月を見上げた。
「だって、消えない……」
 恐らく、彼女を襲った男が無理やり美月にしたであろう行為の名残がいつまでも消えないのだろう。
 胸が、絞られるように痛くなる。そっと壊れ物に触れるように、優しく頬を包み親指の腹を唇に当てると、そこは熱を持っているのだろう熱くなっていた。
 水を触ったばかりの功の指先は少し冷えていたため、余計にその熱さを感じているのかもしれない。美月がその冷たさに心地よさそうに瞳を閉じた。怖がってはいないようだと、安堵する。
 けれど、しばらくすると、美月はハッとしたように、功の指から顔を逸らそうとした。
「美月?」
「……汚れる」
「え?」
「ごめん、なさい」
「大丈夫だ、大丈夫。汚れてなんてない」
 言い聞かせるように、じっと美月を見つめる。瞳を揺らしながら、けれど彼女は傷ついた唇をぎゅっと噛み締めて、涙を落とさないように目を閉じた。
 功が手を沿わせた頬に、強く力が込められていくのを感じる。
「美月、力抜いて」
 頬は増々強張っていく。唇を強く噛み締めたまま力を緩めようとしない美月の口元から、血が流れ落ちた。
「美月、やめろ、口をあけろ」
 必死で止めようとするが、傷ついた美月の口元に強く触れることが出来ない。
 頬に当てていた手に力を込めて顔を固定すると、功は、できうる限りそっと、優しく触れるように、固く結ばれたそこに唇を重ねた。
 不意の行為に驚いたように、美月の唇から力が抜ける。
 ゆっくりと顔を離し、ほんのすぐ目の前にある見開かれた美月の瞳を見つめた。唇についた血を舌で舐め取ると、血の香りが咥内に広がった。
「……ごめん……最っ低だな、俺」
 今の行為は、どう考えても間違えている。どんな言い訳も通用しない。
 ただ、頭で考えるよりも先に身体が動いてしまっていた。

「美月は……許さなくていい。そいつのことも、俺の事も」
 揺れていた美月の瞳から、涙が一筋流れて落ちる。
「……ちがう、功さんは……違う、私が……罰なの、……嘘をついた罰を、受けたの」
「馬鹿なこと言うな」
 何度も首を振る美月を緩く抱きしめ、その顔を胸元に引き寄せた。
「罰なんて絶対に違う」
 功の言葉を否定するように、美月がまた胸元で首を振るのが伝わってくる。胸の中からくぐもった声が聞こえてきた。
「私が……約束を破って、皆を裏切ったから……自分の立場を、忘れたから……だから」
 功のシャツの肩口を握りしめた美月の、震えながら苦しそうに言葉を押し出す身体を抱きしめる。美月は、それでも必死で涙を堪えているようだった。
 こんな風に何故、彼女はいつでもその涙を飲み込もうとするのだろう。
「泣いていい……。泣いてもいいから、我慢なんてするな」
 そう口にしながら、濡れた髪を撫で続ける。やがて胸元から、苦し気な嗚咽が聞こえ始めた。
「ごめ……なさぃ」
「謝らなくていい。お前のせいじゃない。違う。罰なんかじゃない。美月、罰なんかじゃないんだ……」
 堪え切れずに声を上げて泣く美月を抱きしめながら、功は、何度も何度も繰り返し、ただそう言い聞かせていた。


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