その日、部屋に置いてある本を取りに功が久しぶりに二条の屋敷に戻ったのは、もう深夜一時近い時間だった。
学外でのカリキュラムも全て終えそのまま帰宅したが、思っていたよりも遅くなった。
夕方から降り始めた雨は、さっきまで強い降りだったが、今は小雨になっている。
広い屋敷の中は相変わらず静かだが、父と香川は、まだ起きていて書斎に居るのかもしれない。
美月は――もう眠っているだろうか。
いずれにせよ、今はほとんど美月と顔を合わすことはなくなっていた。いや、意図的にそれを避けているとも言える。
静まり返った廊下から部屋へと続く階段を上がろうとして、功は喉の渇きを覚えキッチンルームへと向かった。一晩中薄いオレンジ色の灯りがともっている部屋の中に入ると、低いモーター音が唸る大型冷蔵庫の扉に手を掛ける。
その時、背後で何かが転がるような小さな物音が聞こえた。
冷蔵庫の取っ手から手を離した功は、振り返って部屋の中を見渡すと、納戸として使われている奥の小部屋の方へと近づいていった。
部屋に灯った薄明りのために気が付かなかったが、扉が薄く開き、中からの光が漏れ出ている。
この家のセキュリティを考えると、誰かが忍び込んでいるとは考え難い。泊まりの使用人か、もしくは家の誰かが居たのだろうと思いながら、扉を軽くノックした。
「誰かいるのか」
中からは何の返事も返ってこない。功は、ノブを握るとゆっくりと内側へ扉を押し開けた。
「開けないでっ」
鋭い声が聞こえて手を止める。しかし功の視線は、その先に蹲る人影に縫いとめられていた。
「どう……」
どうしたという言葉が続かない。足元には、薬品箱の中身が散らばり、箱が転がっていた。その側で、こちらに背を向けて床に座り込んでいる後ろ姿が目に入る。
髪は濡れて身体に張り付いていた。バスタオルを羽織ってはいるが、スカートも濡れて、そこから出ている素足には、あちこちに傷があるのが見える。
「美月……どうした」
ようやく身体を動かして、部屋の中に足を踏み入れた。
「来ないでっ」
肩をびくりと竦めて、美月が叫ぶ。構わずに美月の肩を掴んでこちら側に引こうとした。
「嫌っ」
肩に乗せた手を振り払う美月の横顔が目に入った瞬間、功は愕然と目を見開いた。
「……何が、あった」
顔を逸らし、俯きながら震える美月の顔は、唇の端が切れ、赤く明らかに叩かれたような痕があった。濡れた髪が張り付く首筋から目線を落とすと、シャツの襟元が裂け、引っ掻いたような赤い筋が何本か浮かんでいる。
「美月……いったいこれ」
「何でもない、大丈夫だから出て行って。お願い」
「何でもないわけがないだろっ」
功が鋭い声を出すと、美月の身体がそれに反応してビクッと揺れた。
「ちょっと転んだの。それだけなの。薬とタオルを取りに来ただけだから。ごめんなさい功さん、心配しないで」
明らかに震える声で美月が必死で言葉を搾り出すのを聞いていた功は、無意識に強く握っていた手を解いて、床に転がった薬品のいくつかをポケットに入れてから、立ち上がり薬箱を棚に戻した。
奥の棚に綺麗に並べられている大き目のバスタオルを一枚手に取り、それを美月の頭から覆うようにそっと被せる。
そうして、美月が何かを言おうとする前に、功はしゃがみこんで彼女を抱え上げた。
「や……」
「危ないからじっとしてろ」
動いて抵抗しようとする美月に、きつくならない口調でそう言い聞かせる。
「降ろして」
「駄目だ」
「お願い」
「美月、もう黙って」
言葉ほどには抗う体力が残っていないのか、やがて諦めたように抵抗をやめた美月をキッチンルームから連れ出す。
「待って、床……濡れたまま」
立ち止まり、一度強く閉じた目を開いて、呟くように答えた。
「そんなこと、どうでもいい。……どうだっていい」
「ごめんなさい」
小さな震える謝罪の声を最後に、もう何も言わなくなった美月を、功は自室へと運び込んだ。