本編《Feb》

第二章 二日月10



 学園に着いたのは、もう午前中の授業が終わった時間だった。
 エントランスで美月が車を降りる直前、淳也は最後にもう一度、さっき美月に約束させた事を念を押すように繰り返してから、帰って行った。
 車が動く直前「ごめんなさい」と淳也に謝った。淳也は笑ってもういいと言ってくれたが、美月は心の中で何度も何度も謝り続けた。
 罪悪感で一杯だった。上手く騙せたという満足感など微塵もない。安堵感もなく、ただ苦く嫌な気持ちが残っただけだった。
 美月は、結局あの場を切り抜けるために、嘘と事実を綯い交ぜにした作り話を淳也に聞かせた。その嘘に、藍の名前まで利用した。
 自分で自分が薄ら寒くなる位、すらすらと言葉が口をついて出た。
 ――私も、嘘つきだ
 いったい何のためにこんな嘘を重ねているのだろう。正巳のことが怖いからじゃない。
 ただ母の事を、嘘かもしれなくても、縋るように知りたいと思う気持ちを抑える事が出来なかった。
 正巳の話は恐らく嘘だと。決して信じることなどできないと思っているのに。蓋をできなかった自分の欲のために、香川との約束を破り、淳也を騙し、藍を裏切った。本当に心配してくれる大切な人達を騙したのだ。
 ――きっと、その罰を受ける。
 そう思いながら、淳也の車を見送っていた。

 遅れて昼休みに現れて、ずっと沈んだ顔をしている美月を気遣い、藍が何度も心配そうに声をかけてきた。けれど美月は、昨日よりもっと藍の顔をまともに見ることが出来なかった。
 少し風邪気味だと言ったものの、藍は真に受けてはいないだろう。美月は、ただただ早く授業が始まり、そして早く放課後になって欲しいと、そればかり思っていた。
 六時限目終了の合図と共に、ポケットに入れた携帯が震えるのを感じた。
 確かめることもせず、一緒に帰ろうと声を掛けてくれる藍に、寄るところがあると断りを入れて先に教室を飛び出す。
 校門を出たところで携帯を開くと、やはり正巳からの連絡が入っていた。
『待ってるよ』
 今の状況に全くそぐわない可愛いキャラクター付きのメッセージに、嫌悪を覚える。目を閉じて電源をオフにした美月は、足を早めて大通りへと向かった。

 殆ど小走りで言われた場所に差し掛かった時、手前に止まっていたシルバーの車の後部ドアが開き、中から顔だけ覗かせた正巳に手招きされる。
 この前とは違う車――
 そう思いながら、誰かに見られることを恐れた美月は、急いで車内に乗り込んだ。
「やっぱり来たんだ」
 そう言って嬉しそうに笑った正巳の顔は見なかった。
「出して」
 運転手にそう告げて、正巳はサイドのボタンを押しドアにロックをかけた。同時に、小さなモーター音と共に仕切りが出てきて、運転席と後部座席の間が遮断される。美月は、唇を引き結び前を向いた姿勢のまま、クリーム色の壁が目の前を塞いでいくのを見ていた。
「そんなに固くならないでよ」
 笑いながら、正巳の手が伸びてくるのを感じて顔を背ける。
「これでも一応気を使ってさ、いつもと違う車をわざわざ用意してきたんだ。芙美は僕と親しいって思われたくないみたいだしね」
「……」
「まあそりゃそうか。僕とまで噂になったら、二条、香川、そして僕。歴代の会長を手玉にとる女って思われるもんね。芙美がまた苛められるのも、可哀相だし」
 いつものようにくすくすと笑いながら話しかけてくる正巳を、顔を逸らしたまま無視する。
「ねえ、芙美はさ。僕が嘘つきだって知ってるよね」
 それは、答えを求めているわけではなく独り言のようなものだった。だが、どこか投げ遣りにさえ聞こえる次の問いかけが美月を揺さぶった。
「なのにさあ、何で信じたの」
 思わず、顔を向けてしまう。
「やっぱり嘘だったの?」
「やーっと口きいてくれた。ねえ、今朝さあ」
「ねえまあ君、嘘なの」
「今朝、香川とどこ行ってたの、もしかして朝帰り?」
 美月は再び正巳から視線をはずし、正面を見たまま黙り込んだ。
「何かしゃべった?」
 正巳を見ようともしない美月に、その口調が本当に微かにだが苛立ちを含んだものになる。
「今日の事、香川にしゃべったかって聞いてるんだけど」
「嘘か本当かだけ答えて」
「芙美が答えてくれたら僕も答えるよ」
「じゃあ、いい」
 美月がそう答えると、正巳は、へえーと感心するような声を出した。
「凄いね芙美、僕と駆け引きしようなんて」
「もういいから。どこかその辺りで降ろして」
「本当だよ」

 すぐにはそれが問いへの答えだと理解できなかった。ゆっくりと顔を横に向けると、真剣な表情をして美月を見つめている正巳と目が合う。
「芙美夏のお母さんらしい人が、園を訪ねてきたのは本当の事だ。ちゃんとそのことを知ってる人に今日は会わせてあげる。その前に少しだけ懐かしい場所に寄っていくけどね」
 じっと正巳の目を見つめる。だがその瞳からは何一つ読み取れるものはなかった。
「答えたから、こんどは芙美の番だ」
 美月は眉根を寄せた。
「今日は、昼過ぎになってから香川と学校に来たよね。今日のこと、話した?」
「話してない」
 目を逸らしながら、そう答えるのが精一杯だった。
「じゃあ、僕の事を嫌悪感丸出しな目で見てくる美月ちゃんのお友達には?」
 多分藍の事を言っているのだろう。首を横に振りながら手を握り締めた美月に、正巳はもう一度確かめた。
「本当に言ってない?」
「言ってない」
「だけど何か聞かれただろ。芙美、多分明らかに変だっただろうし」
「言ってないって言ってるでしょ」
 思わず苛立って声を上げた美月の方を見つめながら、笑みを深くする正巳がいた。
「君が何て言ってあの人達を誤魔化したのか、凄く興味あるなあ」
 不快さが込み上げ顔を背ける。スモーク越しに薄暗く見える街並みに目を向けると、水滴がガラスを濡らしていた。いつのまにか雨が降り出していたようだ。
 ――あの日と、おんなじ。
 美月はぼんやりとそんなことを思った。由梨江が死んだ日も、こうして車の窓越しにただ雨が降る街並みを眺めていた。
 隣では正巳が、反応のない美月に飽きたかのように、携帯をいじり始めている。
 時折鼻歌交じりに身体を動かす正巳の気配を感じながら、美月は、淳也達を騙してまで知りたかったはずの母への思いが、この景色のようにどこかぼんやりと霞んでいくのを感じていた。


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