初七日が終わるまでは、功だけでなく美月、淳也も学園を休んでいた。
この間、当主である永と香川夫妻が話し合った末、美月は今まで通り屋敷の中の部屋を使い、香川一家が離れから屋敷内へと移ってくる事となったらしい。休みの日々を美月は、香川達の支度を手伝ったりしながら、過ごしているようだった。
もしも美月が、泊まりの使用人や香川達も暮らす離れに移れば、広いこの屋敷の母家には父と功の二人しか残らない。それも、この取り決めの理由の一つだったのだろう。
功の父であり由梨江の夫である永は、これまでと変わらず必要なこと以外で美月に関心を払うことはほとんどなかった。
父がもはや用のなくなった美月をこの家から追い出さなかったのは、情などではなく面倒を避けるため、そしてある意味やはり、関心がなかった、からなのだろう。
そもそも父が美月を迎え入れる事を許したのも、それによって家の中の面倒事を片付けられる、それだけの理由だったに違いない――と、少なくとも功はそう考えていた。
美月を引き取るにあたり、父が出した条件はただ一つ。美月を、莫大な財産の相続人となる二条家の養子にはしないということだったという。そのため美月は、由梨江の前では二条美月として振る舞いながら、戸籍上は、その面倒を引き受けることとなった香川夫妻の養子となっていた。
由緒ある二条家の当主、そしてその名を知らぬ者がいない、世界中に傘下のグループ会社を持つ二条ホールディングス最高責任者の任にある二条永という人は、ある意味誰よりも二条家当主であること、公の人であるという事に徹底している人物だった。
顔を合わすことの少ない功と永の関係は、親子というよりともすれば上司と部下のようなもので、永と由梨江の関係も、あれを夫婦というのなら余りにも母が気の毒だろうと、息子である功は両親のことをそんな目で見ていた。
二条永の妻となるには、母は、精神的に弱すぎる人だったのだろうと。
ひとり息子である功は、その永の後を継ぎ、当主となることを定められた後継者である。
…………
葬儀や法要を終え、美月と淳也は通学を再開した。功は父からもう一日家に居るようにと言われたため、その日は家に残っていた。
香川に呼ばれて父の書斎を訪ねると、中では父と香川夫妻、そして見知らぬスーツを着た男女が、ソファーに座り言葉を交わしていた。
ちらっと功に目をやった父が、正面に座る客人に向け紹介する。
「息子の功です」
素早く立ち上がった香川が、ソファーの方へと功を招き寄せると、向かいに座っていた男女が立ち上がる。スーツの胸元にあるバッジが目に入り、弁護士か――と功が認めたタイミングで、彼らは名刺を差し出し、お悔やみを述べて簡単な自己紹介を行った。
「それでは、皆様揃われたところで、早速ですが本題に入らせて頂きます」
全員が席に落ち着いたところで、剣崎と名乗ったベテランらしい弁護士が切り出したのは、由梨江の遺言についてであった。
母が、二条家の顧問ではない弁護士を通し、正式な手続きを経て遺言書を残していた事に功は驚きを感じた。そもそもそんな事が可能な程、母の精神状態はまともだったのだろうか。
だが、明らかにされた遺言の内容に、母の正常さを疑う余地はなかった。
由梨江の遺言、それは――
自身の財産のうち二条グループ関連株を除く全てを、香川美月に遺贈する。というものだった。
部屋の中が静まりかえる。
微動だにしない父と、その父を呆然と見つめていた視線をゆっくりと功に向けた香川、そして顔を伏せた和美。
父と香川の様子から、どうやらこの遺言書の存在自体、彼らは本当に知らなかったようだ。
功へと意味深な視線を送ってから、最初に口を開いたのは香川だった。
「本当に香川美月と、そう書かれているのですか? 二条ではなく」
「はい。間違いなく香川美月様と。従前のお名前は、芙美夏様であるとも」
功を除く皆は、一様に剣崎のその答えを俄には受け止めきれないようだった。
「――和美」
香川は、もう一度ほんの僅かに功を見遣ってから、呆然としたままの妻へと視線を移した。
「お前は、本当に何も知らなかったのか?」
のろのろと顔を上げた和美は、声を僅かに震わせた。
「奥様が、遺言書を作成されるということは……確かに、聞いてはいました。けれど……こんな……内容については何も、知らされていません。どうして……」
父は何かを考えるように黙ったまま一点を見つめている。功は、身を乗り出して、和美に問いかけた。
「和美、母さんが入院していた間に、美月のことを何か聞かれたり話したりしなかった」
「え?」
「どんな事でもいい。美月がどうしてうちに引き取られたかだとか、本当の美月はもう死んでるっていうような話を」
和美は首を横に振りながらも、少し逡巡するような表情を見せた。
「いいえ。ただ……」
「ただ、何だ」
香川が横から会話に入りこみ、先を促す。和美が、目の前にいる弁護士二人に目線をやったあと、躊躇うように二条の主を見た。
「構わない。話してみなさい。お二人にも聞いて頂いたほうがいいかもしれん」
腰を浮かそうとしていた2人を手で制すと、父もその先を促した。
「あの頃……入院された当初、奥様は精神的に、失礼ながら――相当ひどい状態でいらっしゃったので、お医者様からも出来るだけ美月様のお話はしないようにと、釘を刺されていました。症状を抑えるために薬も服用されていましたし。それが本当の美月様の話であれ、今お屋敷に居る美月ちゃんの話であれ、どちらにしろ奥様を余計に混乱させるからと」
俯き加減で話す和美の言葉を、皆が口を挟むこともなく黙って聞いている。
「その間も奥様は、美月様を亡くされたばかりの頃に戻ったように、美月様を探し回るような行動を取られたり、見つからないと泣いてパニックになられるような状態で」
和美は、そこで一度息をついて部屋の中にいる一同の顔を見渡した。
「余りにそのお姿が不憫で、実は……一度だけ、美月ちゃんを病室に連れて行ってみたことがあるんです。でもやはり、その時もお屋敷にいらした時と同じで、美月ちゃんを見て、こんな子は美月ではない。と仰って、出て行けと病室から追い出してしまわれました。私の浅はかな考えで、あの子にも本当に……可哀想なことをしてしまいました。それ以来、あの子を病室に連れて行ったことはありません。美月ちゃんはそれでもきっと奥様に会いたかったでしょうが、これ以上あの子が傷つく姿を見たくはありませんでした」
功の頭の中にその時の美月の姿が浮かんで、胸が痛くなる。和美は、話を続けた。
「入院されて一年近くは、そんな状態が続いていました。ですが、昨年奥様のお身体に……異常が見つかってからは、奥様のご様子は目に見えて少しずつ落ち着いてこられました。徐々に安定剤等の類のお薬を服用されることもなくなって。奥様は恐らく、いつごろからかご自分がそう長くはないとわかっていらっしゃったんだと思います。そう悟られたことで、却って落ち着かれたように思えました」
永をちらっと盗み見ると、微動だにしないまま難しい顔をしている。
「確か、亡くなられる二ヶ月ほど前のことです。その日は、しばらく口に出されていなかった美月様のお話をされて……。美月は元気だろうか。もうすぐ夏休みだ、昨年はどこへも連れて行ってやれなかったから、今年はどこかに連れて行ってやりたい。そんな事をポツリと仰ったのです。でも……私には、奥様がまた美月様のことを夢想して仰ってるのか、それとも美月ちゃんのことを仰ってるのか、どちらなのかを確かめることができませんでした」
「どうして」
そう問い詰めたのは香川だった。
「怖かったんです。確かめてまた奥様がパニックになられたらと思うと。何度も、確かめようと思いました。けれど折角ここのところ穏やかな表情で過ごされるようになっていたのに、お心を乱すようなことは……。どうしても、私には聞くことが出来なかったんです」
そういうと、和美は両手で顔を覆った。
「今思えば、あの頃には奥様は美月様が亡くなられたことも、美月ちゃんがその身代わりとなってこの家で過ごしていたことも、きっとお分かりになっていたんだと、奥様のご遺言を聞いてわかりました。それなら、どうして仰って下さらなかったんでしょうか。どうして美月ちゃんと会ってやらなかったのか……何故こんな風に、お亡くなりになってからこんな形で……どうやって美月ちゃんに伝えればいいんですか……私にはわからない……あの子がどれだけ……」
やはり、和美ではなかったのか――
功は、和美の話を聞きながら、由梨江の最期の言葉を反芻していた。
仕事と雑事に忙殺されていた香川とは、由梨江が亡くなってからは、まだ話す時間を取れていない。けれど、遺言の内容とそれを聞いた皆の反応、今の和美の話から、誰が由梨江に美月のことを伝えたのかを突き止める必要は、もうなくなった。
父でも和美でもなかったのだ。恐らく母は、何かをきっかけに自分で思い出したのだろう。
思い出していたのならなぜ――
和美が嗚咽混じりに口にしたのと同じ気持ちが、あの日と重なって功の中に再び湧き上がる。
けれどもう、その疑問に答えるべき人は、この世にいないのだ。
「申し訳ございません」
功の耳に、香川の声が届いた。嗚咽を漏らす和美の肩に手をやった香川は、永と弁護士に向かって頭を下げていた。和美も共に、ハンカチで目を覆いながら頭を下げている。
「お聞き苦しい話をお聞かせしました。申し訳ありません」
深く溜息を吐いた永が、二人に続いて剣崎らに詫びを入れた。先ほどまでの動揺などまるでなかったかの様に、いつもの表情に戻っている。
「妻の遺言に異議を唱えるつもりはありません。遺言書の効力を争うつもりも、こちらにはありません。息子も――」
皆の視線が自分に集まるのを受け、功は同意の意を込めて頷いた。
「このとおり異議はありませんので、手続きを進めて頂いて結構です。ただこちらも何かと自由にならない身ですので、実務的なことは当方の弁護士と進めて頂くことになりますが」
父の言葉に、剣崎らは頷いた。そうして、鞄から取り出した書類をテーブルの上に滑らせた。
「もう一つ、お願いすることがございます」
これはこの遺言に関することであるが、法的に有効な書類として残されているわけではない――
と前置きをしたあと、剣崎は皆の顔を見渡した。
「永様は言うまでもなく相当の個人資産をお持ちですし、また功様も将来受け取られるであろう財産がおありです。母方のお祖父様の財産も、いずれ由梨江様の代わりに相続されることになります。それも、二条家までとは言わないものの、恐らく相当なものとなるでしょう。由梨江様は、お二人がそれほど自分の遺産に固執するとは思えないが、どうか遺留分は放棄して頂きたいと。先ほどお伝えした遺言のとおりに、由梨江様の財産の全てを美月さんにお譲り頂けないか、と。そう望んでおられました」
「会社の株を除いてとのことですし、こちらに異存はありません」
永のその返事を聞いて、彼らは安堵したように頷くと、今後の手続きに関する具体的な話を進めた。
美月が成人するまでの間、香川夫婦がそれらの財産の管理を行うことなど、様々な話がなされていく。
功は、それらのやり取りを聞きながら、母が美月に残したものの重さを彼女が知るであろう未来の事を、考えていた。