本編《Feb》

第一章 新月9



 時折苦しそうに眉根を寄せながら、ぐったりとしている美月を、功は抱き上げたまま彼女の部屋に運んだ。
 綺麗に整えられたまるで客室のような部屋。その部屋のベッドに美月を横たえると、眩しくない程度に明かりを絞る。
 ベッドに戻り上から毛布をかけようとして、あることに気が付いた。しばらく躊躇った後、一度内線で家政婦に連絡しようとして手をかけた電話機から、ゆっくり手を離す。
 しばらく眠る美月を見つめてから、功は枕元に戻り、頭の後ろに手を入れて、そっと上半身を抱き起こした。
「ん……」
 微かに美月の声が聞こえて、一瞬動きを止める。目を覚ました訳ではないことを確かめてから、黒いワンピースの背中のファスナーをゆっくり下ろした。
 白い肌が目に入り、いつの間にか詰めていた息を少し吐き出す。苦しくないようにするだけだ――と自分に言い聞かせながら、功は躊躇いを振り払い、タンクトップの上から、胸元を締め付けているであろう下着のホックを外した。
 そこまでが精一杯だった。
 痛くないようにファスナーを腰の辺りまで下ろし、ゆっくりと頭を枕に戻す。
「ぅ……ん」
 美月は、小さく首を横に振りながら、やはりどこか苦しそうにしていた。
「美月」
 布団を掛けながら、呼びかけてみる。その時、閉じた眦からこめかみを伝い涙が流れ落ちた。
「ママ……」
 苦しそうに泣きながら呟く声。そっと指で涙を拭ってやりながら、功は、先ほどより温もりを取り戻した頬に、少しホッとした。
 美月の頬に触れたときのあの冷たさは、功に、病室で握り締めた由梨江の手の冷たさを思い起こさせていた。

 ポケットに入れていた携帯が微かな振動を身体に伝え、鈍いバイブ音が響く。取り出して確かめることもせず、功は電源をオフにした。
 静かな部屋の中、静寂の合間に、美月の微かな嗚咽だけが聞こえる。功は布団の下に手を入れると、頼りない美月の手の平を優しく握り締めた。
 この手は、生きている母に最後に触れた手だ。功は何とかその感触を美月に伝えてやりたいと願った。例え、もう温もりを感じられない冷たい感触だったとしても、生きて、意志を持って、功の手を握り返してきたその感触を。
「……マ……めんなさ……い。ほん……の……きじゃな……ごめ……なさい」
 美月は無意識のまま功の手をぎゅっと握り返して、次第にうなされるように泣きながら言葉を発していた。
 その言葉に、胸を締め付けられるような傷みを覚える。美月は、自分が本当の美月でなくてすまないと、母に詫びているのだ。
 手を離し、両手で涙を拭ってやる。
「苦しい思いばかりさせて……ごめん」
 美月が泣くのを見たのは、いつ以来だろうか。
 この家に来てからの彼女は、人前で涙を見せることがなかった。一人で誰にも覚られないように泣いていたのか、それともそれすら出来ずに、こんな風に眠りの中でしか、涙を流せなくなってしまっているのか。
 どちらにせよ、こんな風にひとりで苦しげに泣く美月を見ているのは、忍びなかった。

 そっと、美月の髪を静かに繰り返し撫でる。
「悪いのはお前じゃない。謝らなきゃならないことなんて、何ひとつない。母さんにも、僕にも、誰にもだ」
 静かにそう囁く。何度かそうして髪を撫でるうちに、美月の呼吸は静かになり、苦しげに眉を寄せていた顔から、少しずつ力が抜けていった。
 穏やかな寝息を立て始めた美月の寝顔を見つめていると、最後に残った涙が一滴、こめかみを伝い落ちた。
 それを拭った指を柔らかな頬にそっと滑らせて、少しだけ色を取り戻しはじめた唇をなぞる。
 ゆっくりと顔を近づけると、功は、そこに唇を重ね合わせた。

 コツリと何かが当たる音が背後から聞こえ、ベッドから身を起こすと、扉の横に少し青ざめた顔をした淳也が立っていた。
「何? 淳也」
「……父から、功さんと電話が繋がらないから、こちらに行って呼んでくるようにと言われました。もうすぐお医者様が到着するので、それまでは、僕が美月に付いているようにとも」
「そうか。……わかった、すぐ戻る」
 もう一度美月を振り返り、頬にかかった髪を指先で払ってから、功は立ち上がり扉へと向かう。強ばった表情をした淳也は、さっきから一度も功の目を見ようとはしない。
「医者が美月の診察を終えたら、ちゃんと結果を連絡して」
「……はい」
 部屋を出て行こうとした功を、扉の横に立ち尽くしたままの淳也が、すれ違いざま呼び止めた。
「功さん」
 足を止めた功に横顔を見せたまま、淳也が硬い声で問い掛けた。
「……どういう、つもりですか」
「何が?」
「僕は見ました」
 きっぱりとそう言い返した淳也の横顔を見つめる。
「……そう」
 功は、それだけを口にすると、それ以上何も答えぬままその場から立ち去った。

 香川の言ったとおり、美月は睡眠不足と食事を取ってない事、そして心労からくる貧血のようであった。
 夜が明け、悲しむ余裕すらない程の慌ただしさで全ての物事が進行していく。やがて葬儀が始まると、しばらくして淳也に伴われ、末席に腰を下ろす美月の姿が見えた。
 顔色が良くなっていることに、少しホッとする。
 美月は、多くの赤の他人に紛れるように、棺から一番遠い席に座っている。本当は、あんな場所に居るべきではない。ここ数年の間、誰よりも由梨江の側にいたのは、間違いなく美月なのだ。
 だが、永も香川も、そして多くの親族達も、美月が由梨江に近しい身内の立場で、この場所に居る事を決して認めたりはしなかった。


タイトルとURLをコピーしました