青ざめた表情を暫く功に顔を向けていた美月は、慌てて棺に向き直り、白い布に包まれたものを、膨らんだポケットから取り出して棺の中に入れた。そうして、母の顔の辺りに手をやり、屈み込んでから、名残惜しそうにゆっくりと手を離した。
何か言葉を掛けているように見えたその仕草を見つめながら、功は、苛立ちと遣り切れなさを抱えた頭の片隅で、思っていた。
その言葉を、由梨江はどんな気持ちで聞いたのだろうか。その存在に自分勝手に救われておきながら、求められた本当の愛情など、終に与えることなどなかったあの人はいったい――。
いずれにせよ、美月が最後に掛けた言葉も由梨江の気持ちも、自分が知ることは永遠にないのだ。
きつく握り締めていた手を解き、功は美月が振り返る前に、俯いた頭を両手で支えながら目を閉じた。
その姿勢のままの功の目の前に、祭壇の方から近付いてきた足音が止まるのを感じた。顔を上げず俯いたまま目を開くと、やはり、美月のものらしき靴の爪先が視界に入る。
「あの……。時間、取ってしまってごめんなさい。ありがとうございました」
周りの目を気にしてか、小さな、しかし揺れのない声が頭上から聞こえた。
「功さんは……」
そう言ったきり、言葉を途切らせたまま動こうとしない美月を訝しく思い、口元が見えるあたりまで顔を上げる。
「何?」
「大丈夫?」
「どういう意味」
「ほとんど、寝てないって」
美月が何を大丈夫かと聞いているのかなんて、本当はわかっている。母を亡くした功を気遣っているのだ。しかし、功にとっての母親は、ずっと以前からもう居ないも同然の存在だった。だから、確かに眠れてはいないが、それは多分美月が考えているような、彼女自身が眠れずにいるような理由からではない。
あの日から、モヤモヤしたものがずっと澱のように胸に残っていて、由梨江の最期の言葉の意味を考え込み、目が冴えていただけだった。
功は、今の美月に気遣われている自分に、舌打ちしたくなった。
返事をしない功に、しばらく黙っていた美月の顔が俯き加減になると、頭の先が向けられた。深く頭を下げているのだと気が付いた時、その姿勢のまま言葉を発する美月の声が耳に届いた。
「ごめんなさい。さっきの、……私のことですね。淳ちゃんと」
「やめてくれ。君には関係ないことだ」
「でも……」
「もういいから、用がすんだなら早くここから出ていくんだ」
でないと――いつまでも好奇の目に晒されることになる。
本当は、誰にも邪魔されない場所で、由梨江と対面させてやりたかった。ここでは、今も美月の一挙手一投足を、会場に残っている他の人間が見ているであろうことが、顔を上げなくとも容易く想像できる。
「ごめんなさい。こんなとこで声をかけたりして」
最後にそう呟くように口にして、美月は踵を返し部屋を後にした。背を向けた彼女を、顔を上げて目で追う。親族席の前でも少し立ち止まり、誰も目を合わそうとしない彼らに向けて頭を下げていた。
その姿から目を逸らして、功はそっと息を吐き出すと棺のほうに目をやった。
――今日くらいもう少し優しくしてやっても
そう言った淳也の言葉を思い返し、苦いものが込み上げる。
その時、たった今美月が出て行った扉の向こうが騒がしくなった。手洗いに立っていた親族の女性が、顔を振り向けつつ戻ってきて話す声が、功の耳にも届く。
「女の子が、倒れてるみたいよ」
心臓が嫌な音を立てた。耳に入った言葉に、思わず腰が浮く。だが、ざわつく親族のうちの数人が、功を盗み見ていることに気が付き、できるだけ億劫そうに立ち上がり、大きな溜息を吐いてから、扉付近に集まった数人を押しのけ廊下へと出た。
ソファーの側に屈みこんでいる香川と、その横で心配そうに覗き込む家政婦の姿が目に入る。
「どうした」
扉の前に立ったまま声を掛けると、振り返った香川の背中越しに、上半身を抱き起こされ、目を閉じてぐったりとした美月の様子が目に入った。
「功様」
香川は、近付いてきた功を、微かに驚いた表情で見上げた。しかし、功には、美月しか目に入っていなかった。ゆっくり歩み寄りながら、香川の反対側に屈みこむと、その頬にそっと手で触れる。顔色が、ひどく白い。肩にもう一方の手を伸ばすと、軽く身体を揺すってみた。思ったよりも冷たい美月の体温に、背筋がぞくっとする。
「おい……」
美月を揺する動きが大きくなってくると、香川が功の手を掴み、それを止めた。
「功様、多分ただの貧血です。ご心配いりません」
カッとなり、小声ではあるが強い口調で言い返す。
「なんで心配いらないってわかる」
「ここしばらく、よく眠れていないようでしたし、食事もほとんど取っていないとの報告がございました。恐らく疲れが一気に出たのではないかと思います。申し訳ありません。すぐに医師を呼びますので、功様はどうぞお戻りを」
その言葉を最後まで聞く事もなく、大きく舌打ちをした功は、美月の身体を香川から引き離し抱き上げた。
「なら僕が部屋につれていく。すぐ医者を呼んでおいて」
きっぱりと告げて、屋敷内の美月の部屋へ向かうため、階段へと足を向けた。香川が小声で耳打ちし、功を引き止めようとする。
「功様にはここを離れて頂く訳には参りません。すぐに淳也を呼び戻しますので」
「その必要はない。僕が連れて行く。どうせこんな時間にそう大した客もないだろ。僕の対応が必要な来客があれば、すぐに電話で知らせてくれればいい。今ここにいてやることがあるのは、お前の方だ。美月のことは医者を呼んでさえくれればそれでいい」
「しかし、功様」
「香川」
それ以上何も言わせないとの意志を込めて、はっきりと香川の名前を呼ぶ。しばらく功の目を見つめた香川は、その意を理解したようだった。
「……申し訳ありませんが功様。私はこちらを離れられませんので、どうか宜しくお願いします。すぐ医者を部屋に向かわせます」
周囲に聞えよがしの声でそう口にすると、取り出した電話で医師の手配を済ませ扉の方へと向かう。
「お騒がせ致しました。ご心配いりませんので、どうぞお戻り下さい」
香川はいつもと変わらぬ冷静な口調でそう告げると、こちらを覗き見る親族たちの目を遮るように、重厚な扉を、ゆっくりと閉じた。