ここ二年、できるだけ顔を合わせないようにと、美月は母の部屋から最も遠い、本館でも離れに近い場所で生活していた。
食事は功と同じダイニングで取るが時間をずらしているため、殆ど一緒になることはなく、朝も通学は別だったため、ここまで間近な距離でまともに彼女を見たのは久しぶりだった。
白い肌、黒い深く透き通ったような瞳、綺麗に弧を描く口角の上がった唇。片側だけ髪を耳の後ろにかけているため、耳もとから首筋への華奢なラインが目に入り、引き剥がすようにそこから視線を外す。
――この家の誰とも似ていない、彼女の顔
眉の辺りで短く切り揃えられた前髪と、まだ少しふっくらとした頬のラインが、辛うじて彼女をまだ功のよく知る幼さの残る少女に留めているが、それでも、少女から女性へと確実に変化している途上の、庇護欲を掻き立てられる危うさのようなものが漂っていた。
「……ですか……功さん?」
「えっ」
美月を見つめながらそんな事を感じていた功は、彼女の言葉を聞き逃した。動揺のため声が大きくなり、それを美月は拒否と受け止めたのか俯いてしまった。
「……なに?」
横に立つ淳也に小突かれ、美月はもう一度、今度は視線を上げないまま口を開いた。
「奥様に……触れても、いいですか?」
そんなことを、小さな声で自分や親族に気を遣うように遠慮がちに尋ねてくる。その姿に無性に腹立たしさが込み上げた。
「どうぞ」
素っ気なくそれだけ答える。何か言いたげに淳也がこちらを見ていることには、気付かぬ振りをして席に戻りかけた。
「あのっ、もう一つお願いがあります」
後ろから追いかけてきた声に振り返り、先を促すように彼女の目を見た。
「棺に、ひとつだけ入れたいものがあって。……いい、ですか?」
訴えかけるような美月の目から視線を外し、背中越しに答えた。
「燃えるものなら、好きにすればいい」
「ありがとう」
ありがとうなんて、言う必要はない。そう、言ってやりたかった。
席に戻っても苛立ちは収まらなかった。彼女をこんな状況に置いてしまっているあらゆる事に。
美月が母の事を奥様と呼ぶことも、功に礼を言うことも、好奇の目で美月を見る親戚たちも、何より、彼女にそっけない冷たい態度しか取ることが出来ない自分にも。
「今日くらい、もう少し優しくしてやってもいいんじゃないですか」
突っかかるような声が、頭上から聞こえた。
椅子に腰を下ろした功の側に立ち、棺に手をかける美月の後ろ姿を見ながら、功に対する不満やこの状況への怒りを隠そうともせず、こちらを見もせずにそう口にした淳也に対してさえ、今まで感じたことのない苛立ちを覚えた。
「何のために」
そんな気持を抑えきれず、低い声で呟く。淳也が目を見開き功に向けた視線に、椅子に掛けたまま下から強く目を合わせた。無言のまま、睨み合うような形になる。
「みいがこんな風に扱われるのはどう考えてもおかしいでしょ。何もかも全部。おかしいって功さんだって思ってる。なのになぜ」
辛うじて声のトーンを押さえていたので、遣り取りの内容は二人以外には聞こえていない。周囲のざわめきも先ほどから変わってはおらず、部屋の中で二人の周りだけ空気が張り詰めていた。
両手を硬く組み合わせ、手に筋が浮くほど握りしめながら、棺の中、ちょうど母の顔の辺りに手を伸ばしている美月を見遣る。
「なぜ……、なんでそんな風でいられるんですか。美月は……奥様が亡くなった時から食事も取っていない。昨夜も多分ろくに眠ってもない。自分から奥様に会いに行きたいとも言わなかった。あいつは、自分の置かれてる立場を知ってる。ずっと、この家に来た時からずっとだ」
「それがどうした」
わかっていることを突きつけられ、抵抗するように言葉が出るのを止められなかった。
「本気で言ってるんですか。あいつがどれだけっ……功さんだってよく知ってるはずだろ。じゃなきゃあんな風に、あの部屋から毎日あいつを」
「淳也っ」
言葉を遮るように鋭く言い放った。
淳也は、将来香川の後を継ぎ、次代の当主となるであろう功に仕える秘書となるため、日ごろから功に対し、分をわきまえた振る舞いをするよう教え込まれている。
歳が近い事と、功がそれを余り快く思わないために、父と香川のような完全な主従関係ではない。
だが公の場や多くの親族が居る場所では、うるさく言う人間も少なくはないのだ。それだけに、特に親族の集まる場所では、功に対する振る舞い方に注意するよう、父である香川からも厳しく躾けられていた。
けれど、怒りに冷静さを欠いた今、淳也は途中から次第に周りにその様子が分かるほど、声を荒げていた。
気が付くと周囲は静まり返り、振り返った美月が目を大きく開けてこちらを見ている。
「淳也」
部屋の中を過る靴音がした。これまで会場の入り口付近で明日の打ち合わせを行っていた香川のものだった。
「功様、大変申し訳ございません」
淳也の頭を無理やり押さえ込みながら、自身も頭を下げる。
「お前はちょっと外に出ていろ」
そして、その場を動こうとしない淳也を、有無を言わせず部屋から引き摺り出していった。勿論途中で、親族たちに向けて侘びを入れるのも忘れなかった。
淳也が部屋を出された後に残った静けさを破ったのは、誰かの携帯が鳴る音で、それに呪縛を解かれたかのように、人々がこちらから視線を逸らしヒソヒソと話す声が部屋に戻ってきた。