時が止まったみたいに、頭が真っ白になる。美月は無意識のうちに、震える手で淳也の腕にしがみついていた。
携帯電話の着信音が響き、それに呼び覚まされるように我に返る。
「――うん、ああ……わかった。うん、今から。うん」
誰かと話す淳也の声を聞きながら、美月はのろのろと重い身体を動かした。その動きに気がついた淳也が、慌てて電話を終えると、両脇を支えて立ち上がらせ、制服を軽く払ってくれる。
「大丈夫か?」
心配そうに覗き込む淳也に笑い返そうとするが、持ち上げようとした口角が震えそのまま俯いた。
「いいよ。無理するな」
頭に、優しく手が置かれる。美月は、ぎゅっと閉じた目を開いて、首を横に振った。
「淳ちゃん、功さんの所に行かないといけないんでしょ。大丈夫だから行って」
視線を下げたままそういう美月の頭に、淳也の手は置かれたままだった。
「母さんが迎えに来てる。今日は迎えの車は全部出払ってるからって。みいの荷物はさっき教室から持って来たから、一緒に家に帰ろう」
顔を上げると、美月を心配そうに見ている淳也と目が合う。気を抜くと、また唇が震えそうになるのを噛み締めて頷いた。
「あ……でも功さん」
「功さんは、病院に」
少し言い難そうな淳也の答えを聞いて、美月は微かに頷いた。
校内の車寄せに車が一台止まっており、一人の女性と学園長がその前で話をしている。
近付いていくと、学園長が淳也と美月に先に気が付き、それに釣られるように、女性も二人の方へと顔を向けた。
美月は、まだどこか雲の上を漂っているような感覚のまま、淳也に手を引かれていた。
「美月ちゃん」
その女性——淳也の母である和美は、すぐに駆け寄ってくると、美月をそっと抱きしめた。その身体から、温もりが伝わってくる。
腕を伸ばした和美が、何かを確かめるように美月の目を覗き込んだ。由梨江のそばに付きずっと世話をしてきた和美は、泣き腫らした目で、美月の顔を見つめている。
「和美、さん?」
悲しみや苦しみの全てを、静謐な瞳の奥底に閉じ込めることに、慣れてしまった子ども——。
和美は、涙に濡れることを忘れさせてしまった柔らかな頬をそっと撫でて、ほんの一瞬、苦しげな表情を浮かべた。
二人を車に乗せると、見送る園長に挨拶をして、和美は静かに車をスタートさせた。
そうして、大通りに入るのを待って、バックミラー越しに二人に視線を投げながら、これからのことを話し始める。
その和美の声を、美月は、後部座席に淳也と並んで座りながら、黙って聞いていた。
通夜は明日の夜、葬儀は明後日に執り行なわれる——そう言われて、美月の体がビクッと動く。
「母さん」
見咎めた淳也が、強い口調で遮ろうとした。しかし和美は、ミラーを通し厳しい表情で淳也を見遣ると、顔を横に振った。
「今、説明をしておかなければ、お屋敷に戻ったら、私もお父さんも貴方たちに話をするような時間はなくなるの。辛いでしょうけど——」
「大丈夫ですから、続けて下さい」
美月の声が被さる。ルームミラーに映る美月の顔はさっきより青ざめて見えたが、和美はそのまま話を続けた。
暫くは学校を休む事になる——そう伝える和美の言葉を再び遮り、淳也が耐え兼ねたように苛立った声で問いかけた。
「そんなことより、みいはいつ奥様に会えるの?」
運転席から、すぐに答えは返ってこない。
「母さん」
ミラーに手を伸ばし、角度を少し変えて淳也と目が合わないように調整してから、ようやく和美は答えた。
「明日の、御通夜の席で。お客様がいらっしゃればその後に、よ。出来るだけ人が少ない時間帯、多分……夜中になるでしょうけど」
「何だよそれ……なんで、すぐに会わせてやらないんだよ。本当なら今日だって」
「淳ちゃん」
淳也の憤りを鎮めるように首を横に振ると、美月は、和美の後ろ姿へ視線を移し静かな声で話し掛けた。
「和美さん、わかってます。私は本当はお母さんの……二条の娘でも何でもないから、難しい立場だってことも、ちゃんとわかってます」
「美月ちゃん……」
「おかしいよ」
納得など全くしていない淳也が、ひとりごつように吐き出す。
「和美さん……あの」
「なに?」
「私、これからも……香川の名前を名乗ってあそこに居てもいいんでしょうか」
静かな声の問いかけに、和美は驚いたようにハンドルを切ると、車を路肩に止めた。振り返ると、後部座席で俯く美月と、こちらを睨むように鋭い視線を投げてくる息子を交互に見遣る。
「美月ちゃん」
やがて意を決するように、和美は美月にまっすぐに焦点を合わせた。
「あなたに、その名前を名乗らせることしか出来ない私たちを、許して欲しいとは言わない。わかっていると思うけどなんて、まだ子どものあなたに、こんな酷いことを言う私を、恨んでくれて構わないから」
「母さん?」
「これから、あなたが二条の本宅で暮らすにしても、うちに来て暮らすにしても。今までのように二条美月として扱われることは、もう無くなるわ。表向きは私達の養女として、淳也の妹として暮らしていく事になる。勿論、私達はあなたを本当の家族だと思っているし、あなたにも、そんな風に思って貰えたらって……。もちろん、すぐには難しいかもしれないけど」
美月に向けて話していた和美が、今日初めて少しだけ笑った。その笑みが、少しずつ苦しげな表情へとに変わっていく。
「美月ちゃん……最後に、あなたを奥様にちゃんと会わせてあげたかった……そうしておけば、もしかしたら……。本当に、ごめんなさい」
声を震わせ、頭を下げた和美を見て、美月は慌てて首を振った。
「違うんです。そういうつもりじゃ。わかってます。ここに来たときからそれは何度も。でも和美さん達だって、私を無理に押し付けられて」
「もういいよみい。みいが悪いと思うことなんて何もない」
「淳ちゃん」
「その通りよ。それに、あなたを無理に押し付けられたなんて、私も香川も思ってないから、それだけは信じて。むしろ——」
その時、和美の携帯が通知音と共に震えた。届いたメッセージに目を通すと、和美は話を切り上げるように正面を向き、ひとつ息を吐いてギアをドライブに入れた。
「ごめんなさい、急がないと。とにかく、今は戻りましょう」
車内を、重い沈黙が支配していた。
昼間だというのに、薄暗くなった空からポツポツと雨粒がガラスに当たり始める。
「——あめ」
ぼんやりと窓の外を眺めていた美月が、ポツリと呟く。
「ねえ、淳ちゃん」
「ん?」
「功さん、間に合ったかな」
「……ああ。最後に病室にいたの、功さんだったらしいから」
「そう。よかった」
静かにそう口にして、美月は、そっと目を閉じた。
雨が激しくなり辺りが暗くなってきたため、シートに凭れ掛かる美月の横顔が、雨水が流れるガラスに映っている。
流れ落ちる雨と、そこに映る美月を見つめながら、淳也の目には、ガラスの中の美月が、泣かない美月の変わりに泣いているみたいに見えていた。