病室の扉を押し開けると、奥にガラスで仕切られた部屋がある。透明なそれ越しに、大きな木目の美しいベッドに横たわる、生気が感じられない痩せ細った青白い横顔を見つめた。
そこに母の命を繋ぐための数々の装置や伸びている数本の管がなければ、ここが病院だとは誰も思わないだろう。
部屋の中にある消毒剤を使い、手と口を消毒すると、中にいる医師が功を見て頷く。
「どうぞ、こちらへ」
ガラスの向こうの部屋に入る自動ドアを通り抜けると、医師から母のすぐ側を示される。
功は、部屋に足を踏み入れた場所から彼女を見つめて、問いかけるように、視線を医者に合わせた。
「できるだけのことはしております。しかしなにぶん衰弱が激しく、かなり危険な状態です。どうか、お覚悟だけは」
医師は、合間にスタッフにいくつかの指示を与えながら、功にも引き続き言葉を掛けてくる。
「そばで、手を握って声を掛けてあげてください。お身内の声はやはりよく聞こえるようですから」
手を握っている人間が自分だとわかる期待は薄いだろうと思いながらも、功はゆっくり母へと近づき、ベッドサイドに置かれた椅子に腰かけた。
そっと、全く力のないその掌を持ち上げ、膝に肘をついて両手で包みこむ。
もう僅かにしか温もりを感じさせない冷たい手。この手が母親として自分に触れた記憶は殆どない。
こちらも、物心ついた頃から彼女を、母親と思って接したことはなかった。そう考えると、自分でも少し可笑しくなる。
何故あの時、まるで母を取られた嫉妬のような、あんな冷たい目で彼女を見つめたのだろうか。彼女の小さな掌を、切り捨てるように振り払ったのはどうしてだったのだろう。
何も知らなかった、知ろうとしなかった自分の愚かしさが思い出されて、苦笑してしまう。
功は、今ここで、誰よりもこの手を握っていたかっただろう彼女の変わりに、自分の手に力を込めた。そうして、この手がまだ温かかった頃、その温もりを離さないために己を閉じ込め、傷付けてきた彼女を思った。
母の手を握る自分の両手に額を落として、目を閉じる。
脳裏に浮かぶ面影は、まだ母が、自分の本当の娘だと思って彼女に接していた時、ただひたすら直向きに母を見つめていた美月のものだった。
しばらくそうして時間が過ぎたころ、不意に、手の中で母の指がピクリと動くのを感じた。ハッとして顔を振り向けると、素早く駈け寄ってきた医師がモニターなどをチェックしながら、声を上げる。
「二条様、由梨江様、聞こえますか、由梨江様」
呼び掛けに答えるように、母の目蓋が微かに震えた。目を開こうとするだけで全身の力を使っていることが、握り締めた掌に徐々に込められていく力から、伝わってくる。
長い時間をかけて、母が焦点の合わない目をようやく開いた時、医師や看護師の動きが慌ただしくなり、功はその場を離れようと立ち上った。
しかしその時、思いもよらない力で腕を引かれ、母の意志の込もった目が功の瞳をまっすぐに捉えた。
「先生」
功が医師に呼びかけると、彼は由梨江に視線をやり様子を窺ってから、早口で告げた。
「何か、仰りたい事がおありのようですね。少しだけなら構いません。ただ、私が外して差し上げられないことは、ご了承下さい」
医師の言葉に頷いた功は、母の目を見つめたまま顔を近付けた。
「母さん」
「……こ……ぅ」
母の唇が震えながら開き、ほとんど吐く息にしかならない声で名前を呼ばれる。十八年間、親子でありながらこんなふうに視線を交わし、呼び合ったことさえ今この時が初めてのような気がした。
彼女の目尻に少しずつ浮き上がった涙が、流れ落ちていくのを指先で拭う。
「ご、……なさ……ゆる、て」
苦しそうに息を吐く姿を見ていられず、思わず医師を見遣ったものの、厳しい表情を崩さぬまま無言で見つめ返されるだけだった。
「こ……」
顔を逸らした功に縋りつくように、管を付けられた細い腕が、制服の袖を掴む。起き上がろうと顔を歪める由梨江に引きずられて、功はベッドに倒れ込みそうになった。
「由梨江様、無茶をっ」
慌てて由梨江に近付いた医師が、母の肩と体を支えながらベッドに寝かしつけようとする。功も、咄嗟に片手をベッドにつき自分を支えながら、もう片方の手を由梨江の背中に回した。
その時、目の前にある喉がヒュッと大きく鳴り、異様に短い間隔の苦しそうな息遣いが、由梨江を抱きしめた功の耳に届いた。胸元に抱える薄い体が、忙しなく苦しげに呼吸するのを、身体越しに感じる。
「離れていてください」
耳打ちした医師に母を委ねようとした時、痩せ細った腕が、離れようとする功の背と頭を、どこにそんな力が残っていたのかと思う程の強さで掻き抱いた。
嗚咽と音を伴う激しい呼吸の合間で、由梨江は、途切れ途切れに何か言葉を紡ごうとしていた。口元に耳を寄せて、辛うじて聞き取れたそれを理解した途端、功の思考が止まる。
「なん、で……」
次の瞬間、母の身体を支えていた腕に突然重みが掛かり、功の背にしがみついていた細い腕が、そこから滑り落ちていった。
「母さんっ」
遠くで心拍停止を示す短調な一本調子の機械音が鳴り響き、声を上げた医師が、由梨江から功を引き離した。
心臓マッサージを始めた医師をぼんやりと見つめたまま、功は後ずさり、壁に凭れずるずるとその場に座り込んだ。
部屋にバタバタと入り込んでくる人の足音。医師の厳しい声と走り回るスタッフ。そんな部屋の中の喧騒をどこか遠いところで聞きながら、功の思考は、最後に母に託された言葉の前に、固まってしまっていた。
いつの間にか病室から連れ出され、フロア内にある別室のソファーに腰掛けていた。気が付けば、目の前で香川が心配そうに功を見つめている。
ようやく自分を認めたらしいと安堵の息を漏らして、香川は、功の両腕を握っていた手の力を僅かに緩めた。
「功様」
「……母さんは?」
「奥様は、あのまま……」
苦しげにそう告げる香川を見つめるうちに、功は、一つの可能性に突き当たった。ソファから身を起こし、目の前に居る男の両腕を強く握り返す。
「香川、母に美月の名前を教えたのか?」
「功様? いったい何を」
怪訝な顔を見せる香川に、苛立ちが募る。
「美月の本当の名前は芙美夏だ。うちに来る前は芙美夏だった。そうだな」
「なぜ……あなたがそれを」
「そんなことは今はどうでもいい。母にそれを教えたのはお前なのか」
ソファから半ば腰を浮かし詰め寄る功に、香川は首を横に振る。
「奥様とそのような話をしたことはございません。奥様にあの子がなぜここで暮らしているのか、いったい何者なのかと聞かれたことも勿論ありません。何故、そんなことを?」
「じゃあ……母は思い出していたのか」
「……そのような事は」
戸惑いを滲ませた表情で、香川はもう一度首を振った。
「知っていた」
「……まさか」
「母は、知っていたんだ。最後に、芙美夏の名前を口にした。本当にお前じゃないんだな」
功の腕を強く握りしめた香川の瞠目した表情を見れば、それが嘘ではないことが功にもわかる。
「他に、知っているのは誰?」
「私と旦那様、あとは和美だけです」
和美は、香川の妻だった。二条家に出入りする家政婦を仕切り、二条家当主夫妻の身の回りの世話を自らも行っている。
「それ以外には?」
「おりません、あ、いや、淳也が……。功様のお耳に入れたのは淳也ですか」
「香川、そんな事は今はどうでもいい。いつから、なぜ母がそれを知っていたのかが知りたいんだ。知っていたならなぜ、母はあれほど頑なに美月を遠ざけた?……父の意向か?」
「いえ、旦那様からそのようなことは……。それに、お見舞いにいらっしゃるときは、私が必ず同席しておりました」
「じゃあ、和美だということか?」
「わかりません。ただ、和美だったとしたらそれを私に隠すことはないかと」
二人して顔を見合わせていたが、香川が先に現実に意識を振り戻した。
「いずれにせよ、今はこのことに割いていられる時間がございません。私ももう行かなければなりませんし、功様にも早急にお屋敷にお戻り頂くことになります。和美には、落ち着いてから私が確かめておきます。ひとまずは、このことは預からせて下さい」
「美月が……」
ふと思いついたように、功が呟く。
「美月が知ってる」
「美月ではありません。あの子は絶対に言いません」
それだけは確信をこめて否定し、香川はそのまま立ち上がった。
「父は、来てる?」
「いいえ、間に合わない事がわかりましたので、そのままお屋敷に戻られました」
「なら別に……」
美月を連れてきたってよかったのではないか、とそう言いかけた言葉を飲み込む。
それには気が付かぬふりをして、香川は功に屋敷に帰るよう念を押してから、部屋を出て行った。
知っていたなら、何故――
何故、母は最後に美月に会ってやらなかったのか。
――……ふみ……ゆ……て……こう……みか……しあわ……に
母が最後に言い残した切れ切れの言葉。それでも、功には彼女の言いたかったことは伝わっていた。
芙美夏、許して。功、芙美夏を幸せに――