本編《Feb》

第一章 新月3


  
 病院の入口前に車が止まると、中から出てきたスタッフによって、特別室専用のエレベータへと案内される。一人そこに乗り込み自動的に最上階へと昇ると、今度はフロア専属のスタッフが、絨毯の敷かれた廊下で待ち構えていた。
 病院というより、まるでホテルのエグゼクティブフロアのようであるこの階層に、病室はわずか二室。フロア内に手術室まで備えた、完全VIP用の専用病棟だ。

 出迎えに案内の必要はないと断りを入れ、そのうちの一つの病室へと向かう。
 茶色く重厚な木製のドア――病室とは思えない設えの扉――の前で、既にこちらを向いていた男が、耳に当てていた携帯電話を下ろしながら駈け寄ってきた。
「功様、お待ちしておりました」
 制服の肘に手を添えようとするのを避けて、扉の前まで歩を進めた功は、視線だけを男に向けた。
「他に誰かいる?」
「いえ、現在は病院のスタッフだけです。どうぞお入り下さい。もうあとどれほどお時間が許されるかもわからない状況だと」
 すぐに答えを返し、静かに目を伏せたその男は、功に一礼しエレベータの方へ向かおうとした。その足が、すぐに止まる。
「淳也は、下におりますか」
 振り返ったその男は、先程から沈痛な面持ちを浮かべてはいるが、頭の中ではいつものように、これから先の職務を冷静に組み立てているかのように見えてしまう。その様子が、功の胸の奥で燻ぶり続ける怒りに拍車を掛けた。
「来てない」
 挑むような答えに、足を止めたままの男の眉根がほんの少しだけ寄せられる。
「ご一緒するようにと言い聞かせたのですが。そうですか、申し訳ありません。愚息のことで足をお止めしました」
「僕が、置いて来た」
「そう、ですか」
 それだけで、彼はその言葉が意味することを理解したのだろう。理由を問い返すこともせず、軽い会釈を残し、再び携帯電話を持ち上げた。
「香川。美月を連れて来るなというのは、父の指示?」
 既に耳元にあった電話をゆっくりと下ろした香川の横顔を、じっと見つめる。その表情は、影になっていて功からは見えなかった。
「いえ……私です」
「何をしてるか、わかってるのか? 会わせても今じゃもう、母さんだって美月に何も言えないだろ」
 僅かに俯いた香川が、唇を強く噛み締めるのがわかる。苦渋が伝わるその表情を目にした途端、功の中に怒りの代わりに湧いてきたのは、悲しみだった。
「もういい」
 二条家の秘書として、父や母のために働くことがこの男の仕事だった。例え父や母が直接言葉で指示をせずとも、その意を汲み取り、望むように動くことが彼に求められた職務なのだ。そこに、彼自身の意志は必要ない。
 わかっているのか、と尋ねながら、わかっていないはずがない事は、功も知っていた。

 溜息を呑み込んで、病室の扉に手を掛けようとした時、背後から抑揚の少ない香川の声が聞こえた。
「美月様は。美月は、これから二条家においても、二条美月様としてではなく、香川美月として生きていかなければなりません」
 振り返って、主を見つめる。
「そのことを……」
 まるで業務報告をするかのように淡々としていた口調が、そこでほんの僅かに震えた。
「そういったことを、私はあの子が二条家に引き取られた時から、ずっと、彼女に言い聞かせて参りました」


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