本編《Feb》

第一章 新月2




 雨が降るかもしれない。

 美月は、窓の外をみながら眉を曇らせた。
 雨が降ると、昼休みを過ごすための空き教室を探さなければならない。せめて昼休みの終わりまでは何とかもって欲しい。そう思いながら、ランチボックスと念のために折畳傘を巾着につめて、席を立った。
 教室を出ようとした時、後ろから「香川さん」と、どこか甘ったるい口調で声を掛けられる。
 ――また……
 少しうんざりしながら振り返ると、いつでもどこでも三人で行動している逸美とその取り巻き二人が、何が楽しいのかクスクス笑いながら窓辺に立って美月を見ていた。
「何? 急いでるんだけど」
「このゴミみたいなのの持ち主、知らないかなって思って」
 そう逸美が二本の指で摘みながら目の前に突き出したものを見て、美月の顔色が変わった。
「それっ、どこで」
 手を伸ばしながら走り寄って行くと「きゃっ」と声を上げた逸美が、わざとらしい仕草でそれを窓の外へと投げ捨てた。
 教室の中に、見ないふりをする気不味い空気が流れる。それを無視したまま、美月は急いで教室を飛び出した。

 ここ中等部二年の教室は、裏庭のバラ園を見下ろす場所にある。バラ園を囲むように巡っている水路に落ちていたら、園の中に造られた大きな池まで流されてしまうかもしれない。
 裏庭に向かって駈けながら、美月は唇を噛み締めた。
 教室の真下辺りに辿り着くと、キョロキョロと周囲を見渡す。投げ捨てられた窓の下辺りから水路に向かい、左右を見つつ必死でそれを探して歩いた。
「……あった」
 探し始めて数分程経った頃、ようやく水路際の植え込みに引っ掛かり、下半分が水に浸かったそれが目に入った。
 近づいて、水路に落とさないように取り上げようとそうっと手を伸ばす。しかしもう少し、というところで手が届きそうで届かない。
 靴を脱いで水路に入ってしまおうかと、手を引っ込めた時、植え込みに袖が触れて、引っ掛かっていたものが水路に落ちた。咄嗟に左足を水路に踏み入れて、手を伸ばしそれを掴み上げた。
 濡れた足を引き上げて地面に座り込み、美月は、取り戻した物を胸に押し当てぎゅっと目を瞑る。
 しばらくそうしていたが、濡れた足元に気持ち悪さを感じて、巾着を掴むと、いつもの場所へと向かった。

 辿り着いた石段に腰を下ろし、ぐしょ濡れになった靴と靴下を脱いでそれを絞る。うんざりしながらハンカチを取り出して、少しの躊躇いを振り払い、左足を拭った。
 教室に戻れば靴下はあるが、今すぐ戻る気には到底なれない。
 濡れたものを石段に並べ置いてから、ようやく美月はほっと息を吐き、左手に掴んでいたものを膝に乗せた。

 それは、大人の手のひらほどの大きさの、テディベアの顔型ポーチだった。毛並みが傷んでしまい、所々薄くなってしまっている。しかし、今でも瞳の中に埋め込まれたスワロフスキーのクリスタルが、光を反射してキラキラと輝いていた。 
 初めてこれを手にした時、幸せが形になって自分の手の中に舞い込んできたような気がした。宝物になったそれを、ずっとずっと大切にしていた。
 水路に流され、水に濡れてしまったそれは、目元に溜まった水が涙のように見えて、悲しそうだ。
「ゴメンね。ママ」
 美月は、濡れてしまったテディベアの顔を撫でながら、そっと呟いた。

 ——随分と遅くなってしまった
 慌ててランチボックスから取出した昼食を食べ始めると、暫くして、こちらへ向かって来る足音が聞こえた。
 咀嚼していたものを飲み込み、様子を伺っていると、高等部の制服姿の男子生徒が、美月の目の前までやって来て立ち止まった。
「淳ちゃん」
 淳也は、そこから訝しげに裸足の美月の足元と濡れた靴や靴下を見ている。
「また何かされたのか」
「ううん。ちょっと滑って水路にはまっただけ。……何?」
 笑いながらそう答えて再びご飯を食べ始めた美月に、何か言いたげに口を開いた淳也は、口を噤むと、やがて大きな溜息を吐いた。
「替え、持って来てやるから、しばらくここで待ってろ」
 それだけを告げて、踵を返そうとする。
「淳ちゃん、何か用があったんじゃないの?」
 後ろ姿に呼び掛けると、淳也は足を止めて顔だけこちらへ向けた。さっきから一度も、ちゃんと目が合わないその事に、美月の心が小さく騒めく。
「ここに居ろ。遅くなっても、俺が戻ってくるまで」
 やはり目を合わす事なく顔を前に戻すと、淳也はもう一度そう言い置いて、立ち去ってしまった。

 結局、五時間目の始まりを知らせる音楽がなっても戻らない淳也を待ちながら、美月は、確かに膨れ上がる不安に、食事もほとんど進まなかった。
 ここに居ろ——
 そう重ねて言われたのだから、待っているべきなのだろう。淳也も授業には出ずにここへ戻ってくるということだ。
 ぼんやりと、テディベアのポーチを撫でながら時間をやり過ごして。ほとんど授業も半ばを過ぎた時間になって、ようやく足音が聞こえ淳也が戻って来た。
「淳ちゃん、遅すぎ。授業サボっちゃったよ。何……してたの?」
「いいから、ほらこれに履き替えろ」
 淳也は箱から新しい靴と靴下を取出し並べて美月の前に置いた。
「予備、置いてたから」
 置かれた靴下と靴を美月が履いている間に、淳也は濡れた靴下と靴を箱に入れ、無事だった方の足を指差した。
「みい、そっちも新しいのに履き替えて」
 そうして、美月が脱いだ靴を箱につめると、淳也の動きが止まった。沈黙に顔を上げると、無言のまま淳也は、石段の上に乗せられたクマのポーチを見つめている。
「それって……」
 そう呟いた後、何か言葉が続くのかと待っていた美月は、やはり何も言わない淳也の顔をじっと見つめた。
 美月の視線を避けるように背を向けて、倉庫の並びに建つ焼却炉へ向かった淳也は、手にした箱をそのままそこに投げ入れようとした。
「淳ちゃんっ」
 止める間もなく、濡れた靴の入った箱が焼却炉の中に落ちていく。
「もったいない……まだ、新しかったのに」
 不満を隠そうともせず口にして、焼却炉を未練がましく見つめている美月に、今日初めて、淳也が少しだけ笑みを向けた。
「何年たっても、美月様は金持ちの感覚に慣れませんね」
 茶化すように、丁寧な言葉を返してくる。
「だって、まだ新しいのに燃やさなくても」
 まだぶつぶつ言う美月の隣に並び立ち、淳也が、「みい」と、とても静かな声で美月を呼んだ。
 横顔を見上げると、さっき一瞬見せた笑顔はもう消えている。真面目な表情で、そしてやはり躊躇うように開きかけた唇を結んで。淳也が、一度固く閉じた瞳を開いた。
「濡れた靴を持って帰っても、屋敷では誰もそんな事に構っていられない。そのうちどうせごみと一緒に処分される。それなら今ここでやっても同じことだ」
 淳也の言葉に、自分の中にあった不安が、はっきりと形を成していくのを感じた。
「どうして……何が、あったの」
 それを打ち消したいと思いながら、問い返す美月の声が震える。
「しばらくは皆、それどころじゃなくなる」
 一つ息を吸い込んだ淳也は、不安そうに自分の両肘を掴んだ美月の目を、その日初めて正面から捕らえた。
 その瞳が悲しそうに揺れて、口元が微かに震えているのを見つめながら、美月はどこか遠いところで、その声を聞いたような気がした。

「さっき父さんから連絡があった。……奥様が、亡くなった」



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