本編《Feb》

プロローグ4




 たった二日後の放課後の事であった。
 いつものように芙美夏は、高学年の子ども達と揃って皆で帰園していた。
「すっげえ」
 園の正門が見える角に差し掛かると、前を歩いていた男の子達が声を上げ園へと走り始めた。後ろので何だろうね、と顔を見合わせながら少し足早になった女の子達の集団も、その理由がわかると、口々に声を漏らした。
 門から少し入った所に、大きな車が一台止まっていた。美しく磨き込まれた黒塗りのその車は、一目で、子ども達にもわかるほどの高級車だったのだ。乗り物が好きな男の子達は興奮するはずだ。
 けれど、はしゃぐ声の裏側で、その車の主が誰かを迎えに来たのではないか、それは自分ではないのか――。脳裏を過ぎるその思いを、誰も、口に出すことはなかった。

 高学年の子ども達の中には、醒めた視線で横目で車を見ながら、園内に入っていく者もいる。小さな子ども達の何人かは、騒ぎながら車に走り寄り周囲に群がっていた。
 園の門を入ると、一緒に歩いていた子らもそちらに足を向けたが、芙美夏は手を繋いでいた上級生と二人、少し遠巻きにその車を眺めていた。
 しばらくすると、園の玄関から絵美先生が出てきた。誰かを探すように目線を動かした先生が、走り寄ってくる子ども達と二、三言遣り取りすると、その子どもらは先を争うように、走りながら戻って来る。
 芙美夏の名を、呼びながら。
 芙美夏は自分が呼ばれた時、繋いでいた上級生の手に一瞬力が込められたのを感じて、隣を見上げた。
「ほら芙美、呼ばれてるから、行っておいでよ」
 上級生の手がゆっくりと離れ、そう言って向こうに押しやられる。少しだけドキドキしながら、芙美夏は絵美先生の方へ向かって、歩き始めた。

 どこか強張った表情の絵美に手を引かれ、連れて行かれたのは応接室だった。部屋に入ると、入口の方へ向かいソファーに腰掛けていた園長先生が立ち上がり、背を向けて座っていた男の人が二人振り返った。
「あっ……」
 そのうちの一人は、あの時公園にいた男の人だった。その事にびっくりし、さっきよりも胸がドキドキする。
「芙美夏、こちらへおいで」
 園長先生に呼ばれ、大人たちの中に入っていく。
 部屋の中には、みどり先生もいた。園長先生は、ぼさぼさの白髪が特徴の、とても穏やかで温かな女性だった。 自分を見つめるたくさんの大人達に囲まれて、どうしてよいかわからずに俯いた芙美夏の頭をそっと撫でると、園長先生は、見覚えのある男性の方に芙美夏の身体を向けた。
顔を上げると、じっとこちらを見つめていたのだろうその人と目が合う。
「……公園の人」
 振り向いて、コクリと頷きながら園長先生を見つめて答えた芙美夏の顔は、とても上気しており、瞳を煌めかせていた。
「香川さん。問題はないと仰られても、申し出は正式な手続きを経ておりません。何より、この子の……芙美夏の気持ちが大切です。暫く、席を外して頂けますか」
 小さな芙美夏には、周りの大人たちの戸惑いや、複雑な表情の意味はわからなかった。
 園長先生の言葉に頷き、隣の男性を伴って席を外す香川をじっと見つめると、芙美夏に向けて、少し笑みを浮かべた気がした。

 その日のうちに、芙美夏は何も持たず、香川と呼ばれる男性と、大きくて綺麗なあの車に乗って園を後にした。香川と共に居たもう一人の男の人は、まだ先生と話があるからと、そのまま園に残っていた。
 あの後、香川達が部屋を出て行くと、園長先生は芙美夏に色々な話をした。
 芙美夏の決断が、どういう意味を持つのか。
 良いことも悪いことも全部、小さな芙美夏にはよくわからないような難しいことも、出来るだけ理解できるように何度も言い聞かせて、芙美夏の気持ちを確かめた。
 周りの先生達は、反対していたようだった。園長先生も、余り乗り気ではないように感じられた。けれど、芙美夏にとってはたった一つの事実だけでそれを決めるのは容易いことだった。迷うことなど何もない。どうしてそこまで周りが躊躇うのか、わからなかった。
 芙美夏には、あの女の人が――。
 あの好い匂いのする女の人が、ママになる。それだけで、十分だった。

 芙美夏を抱き上げた香川は、先程まで園長達に見せていた、どこか冷たい感じのするビジネスライクな顔ではなく、穏やかな優しい笑顔を見せて、芙美夏の頭を撫でた。
 ――この人と一緒に行く先に、あの女の人が居るのだ。
 芙美夏は、自分の心臓がドキドキと音を立てるのを感じて、香川にぎゅっとしがみ付いた。


 一人最後まで芙美夏を見送りながら、園長は、どこか自分に言い聞かせるように、香川の見せた笑顔に心の中で縋っていた。



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