芙美夏は、両手をみどり先生と絵美先生に引かれながら、美月、と泣き叫ぶ声に何度も後ろを振り返った。
とてもいい匂いのする身体で、芙美夏を美月と呼び、愛おしそうに抱きしめた女の人は、芙美夏を追いかけようとするのを、一緒に居た男の人に引き戻され抱えられている。
その腕を振り解こうと体を前のめりにしながら、悲痛な声を上げ泣き叫んでいた。
「離して、美月、美月、どこに連れて行くの、私から美月を取らないで」
「何だあれ、ちょっとおかしいんじゃない、一応届けときますか」
「事情があるのよ。黙って。あとで話すから」
顰めた顔をした和人先生に、みどり先生がそう短く答えている。公園の出口に差し掛かると、みどり先生は不意にその足を止めた。そのまま歩みを進めていた絵美先生が手前に引っ張られるような格好になり驚いたように振り向く。
「みどり先生」
絵美先生が呼びかけるが、みどり先生はそれには答えず、ただじっと芙美夏の顔を上から見下ろしていた。
みどり先生のそんな表情を、芙美夏は何度か目にした事がある。
新しいお友達が、お母さんに連れられて園にやって来た時。一時帰宅していた子どもが戻って来る時。子どもを園に置いて何度も頭を下げながら、または逃げるように一人、園を去って行く母親を見送る時。
そんな時と同じような顔だ。
芙美夏はみどり先生の手をぎゅっと握り、視線をそのまま公園の方に向けた。
さっきの女の人は、腕だけをこちらに向けて伸ばし、綺麗な服のまま、今は地面に座り込んでいた。側にいる男性が女の人の肩を抱きながら、こちらを見つめ、そして大きく頭を下げた。
みどり先生は、それに釣られてハッとしたように頭を下げ、再び園へと帰る道を歩き始めた。
公園の出口を出て、右に折れるともう、生垣に阻まれ二人の姿は見えなくなった。
その時、「あっ」と小さく叫ぶと芙美夏は突然立ち止まり、頭に思い浮かんだ考えに、ドキドキしながらみどり先生に呼びかけた。
「みどり先生」
「ん?」
「みどり先生、あの女の人は芙美のお母さん? 芙美は本当は美月っていう名前なの?」
大きく見開いた目を、まるで宝物を見つけたようにキラキラとさせてみどりに問いかけた。
「芙美……」
みどり先生は絵美先生、和人先生と顔を見合わせたあと、芙美夏の目の前に屈みこむと、目線を合わせ口を引き結び、大きく首を横に振った。
「芙美、違うの。あの人は……」
みどりはじっと芙美夏を見つめる。この子達はいつでも、全身で切望しているのだ。いつか、いつか母親がきっと自分を迎えに来てくれるということを。
しかし、そうでない現実を突きつけなければならない。子どもたちを養子に貰い受けたいという話がないわけではない。数少ないが、そうして新しい両親の元に引き取られていく子どもたちもいる。
だが、それは、ほんの一部の子どもに過ぎない。それに、心の奥底で彼らが望んでいるのは本当の父や母であることもまた確かだ。
そして、芙美夏には、彼女が園に預けられた経緯を考えても、本当の父や母が迎えに来るという可能性がほとんどゼロに近いであろう事をみどりは知っていた。
「あの人はね、芙美のママじゃないの。あの人が探している子どもが芙美に似ていたから、少し間違えちゃったのね。きっと」
答えながら、今芽生えたばかりの希望が、見る見るうちに芙美夏の中で萎んでいくのが、目に見えるようだった。
この子達はこんなに小さな時から、多くのことを諦めている。芙美夏はたった六才なのに、二十数年生きてきた私たちよりずっとずっと多くのことを諦めて生きているのだ。
「ふみ……、帰ろうね。皆待ってるよ。急にいなくなっちゃったから、きっと心配してるよ。ね」
やさしく頭を撫でるみどり先生がとても痛そうな顔をしたので、芙美夏は自分がみどり先生にこんな顔をさせたのだと思い「ごめんなさい」と、小さく呟いて、きゅっと唇を噛み締めた。
違ったのだ。あの人は芙美夏を迎えに来たママではなかったのだ。芙美夏は小さな手を握りしめた。
「ほら、芙美。今日は特別。先生が肩車してやろう」
さっきまで怖い顔をしていた和人先生が、そう言って、肩に乗せてくれた。和人先生の肩車はとても高くて皆がいつも強請るが、特別な時にしかしてもらえない。和人先生の肩に乗せてもらい、高い目線から下を見下ろす。
だが、いつもはとても嬉しいはずの肩車が今日はちっとも嬉しくはなかった。
その日芙美夏は、園に帰ってから頑なに手を洗うことを拒んだ。
あの人が握っていた自分の手首からとても良い匂いがしていたからだ。
芙美夏は、初めて自分を抱きしめたママの匂いのする手を、ぎゅっと身体で抱き締め、布団の中で静かに泣いた。