本編《Feb》

プロローグ1




 ずっと、後悔していた。

 伸ばされた小さな手を振り払ったあの時の、大きく見開かれた瞳が
 いつまでも、胸に棘のように刺さっている。
 まっすぐな瞳を――
 悲しみを飲み込むその瞳を――
 ただ、冷たく見下ろすしか出来なかったことを。


 * * *

 十年ぶりの猛暑といわれた夏の気配がようやく薄らぎ、そろそろ秋に入ったことを感じさせる季節になっていた。
 まだ昼間の明るさは残っているが、日が暮れるのも確かに早くなってきている夕刻、療養所から屋敷に帰るため、香川は車を走らせていた。
 時折、バックミラー越しに後部座席を見遣るが、彼女はずっと窓に凭れたまま視線を動かすことはなく、ただ、窓の外を流れる景色を見るともなく見ている。

 しかし、やがて車が小さな公園沿いを通り過ぎた時、彼女が不意に「みづきっ」と叫び、窓に顔を押し付けた。
 驚き、急ブレーキを踏んだ香川は、前のめりになった体勢を立て直すと、すぐに後ろを振り向いた。
 彼女は焦りの余り上手く上がらないロックを苛立たしげに上げ、今まさにドアから飛び出そうとしている。
「美月っ……みづきっ」
「奥様、お待ち下さい」
 運転席から後部座席に伸ばした香川の手をすり抜けて、彼女は、外に走り出てしまった。
「奥様っ」
 慌てて車を飛び出した香川は、叫びながら彼女の後姿を追いかけた。今車で走ってきた道を少し引き返し、右手にある公園の中へ向かったらしい。
「くそっ」
 その姿を目の端に入れながら、植え込みを斜めによぎり公園へと入っていく。そうして、視界が開け彼女の姿をはっきりと捉えた瞬間、目に入った光景に思わず足を止めた。



 彼女は、そう広くはない公園の中にあるジャングルジムの側で、小さな人影を抱きしめていた。
「ああ美月……、美月、どこに行ってたの?ママずっと探してたのよ。顔をよく見せて」
 泣きながら掻き抱いた小さな子どもの身体を、少しだけ胸元から離すと、その頬を両手で何度も撫でている。
 その光景をしばらく見つめていた香川は、小さく溜息を吐くと、そっと背後から近付いていった。
 しかし、彼女が愛おしそうに、何度も頬を撫でるその子どもの顔を見た途端、再び足が止まってしまった。驚いたように大きく眼を見開き、突然自分を抱きしめた女性を見つめる女の子の顔は、確かに、どこか美月の面影を宿している。
 胸に痛みを覚えながら、しばらく立ち尽くしていた香川は、我に返ると後ろから彼女に呼びかけた。
「奥様、……奥様、この子は……美月様ではございません。どうかお離し下さい」
 そうして、女の子を抱きしめる細い腕をそっと掴もうと手を伸ばした。
「何を言ってるの香川。ここに居るのは美月よ。わけのわからないことを」

「奥様っ」
 香川は、大きな声で彼女の言葉を遮り、言い聞かせるように繰り返した。
「奥様、この子は美月様ではありません。美月様によく似た……他人です。よくご覧になって下さい」
「あなた……何を言っているの。ここにいるのは美月よ。なんてことを。私が自分の娘をわからないとでも言いたいの?いくらあなたでも許されない事よ」
 彼女は、腕を掴んだ香川の手を大きく振り払うと、涙の中に強い光を宿した瞳をこちらに向けた。その彼女の瞳を見つめながら、香川は、小さく息を吸い込み拳を強く握りしめた。
 そうやって勢いをつけなければ、口にすることが出来ない言葉を搾り出すために。

「奥様、こんなことを言う私をお許し下さい。思い出してください。美月様は、亡くなられた。もう半年以上も前にご葬儀をあげたんです。御辛いのはわかっております。しかし」
 パシッと、頬を打つ音が静かな公園の中に響き渡った。怒りで震わせた唇を固く結んだ彼女は、肩で息を吐いている。
「あなた……何を言ってるの」
「奥様……」
 香川が次の言葉を口にする前に、視線を逸らした彼女は、驚いたように身動きもせずその場に立ち尽くしている小さな女の子に、蕩けるような笑みを向けた。
「美月、香川ったら今日はおかしなことばかり言ってるわね。ごめんね。後でちゃぁんと叱っておくわ」

 そうして慈しむようにその子の髪を撫でると、もう一度ぎゅっと抱き締めた。
「……奥様」



 その時、それまで黙ってされるままになっていた女の子の小さな両手が、まるでスローモーションのように、おずおずと彼女の身体に伸ばされるのが見えた。
「ママ……」
 その子は、小さな指先で彼女のスカートを強く握ると、か細く消え入りそうな声で、そう呟いた。 
 思考が一瞬止まり、その光景を、ただ呆然と見つめるしか出来ない自分がいた。

「ああ美月……。美月、さあ、おうちに帰りましょう」
 小さな手を手の平に包み込んだ彼女がそう言ったとき、ようやく香川は、現実に立ち戻った。


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