番外編《Feb》

月の雫



「咲ちゃんに渡したい物があるんだ」
 病室を訪れた咲は、見舞いに来ていた功を目に留めると、輝くような笑みを浮かべすぐにそばに走り寄り、学校や園での話を夢中で話して聞かせていた。
 芙美夏が目を覚ましたあの日以来、咲と功が顔を合わせるのは今日でまだ三度目のはずなのに、二人はずっとそうしてきたかのように打ち解けている。普段人見知りをする咲が、功には本当にすぐに懐いていた。
 それが何故なのかを功に問い掛けても、内緒だと言って笑みを浮かべるだけだ。
 不思議に思いながら、そのことに芙美夏は複雑な思いを抱いていた。
「なあに?」
 期待に満ちた声を上げてから、咲は振り向いて顔色を伺うように芙美夏を見つめた。
「功。……咲にだけ、は」
 かわいそうだが、咲だけを特別に扱うことは出来ないと伝えようとした芙美夏に、功が笑って頷いた。
「大丈夫。向こうには今日、岡田に行って貰ってる。もうすぐクリスマスだろ」
 園の子ども達にも贈り物が届けられてると言うのだ。
「渡したいっていうより、とりかえっこして欲しいものかな」
 咲に向けて話しながら、功は、鞄の中から取り出したものを二本の指で摘まむようにして、小さな瞳の前でそれを軽く振って見せた。
 目を輝かせた咲が、功の手にした透明な硝子の瓶へと手を伸ばす。
「わぁっ、きらきらしてる」
 瓶の中に詰められた色とりどりのビー玉が、病室に差し込む光を受けて七色の帯を作り出す。
「きれー」
 芙美夏も、そのガラスの玉が放つ柔らかい色彩に見とれた。
「お願いがあるんだ。そのビー玉の代わりに、これを」
 功がポケットから取り出して手のひらに乗せたそれは、欠けて輝きを失くしてしまった咲のビー玉だった。功の手の平のそれと、瓶に入った煌めくビー玉を見比べた咲は、複雑な表情を浮かべている。
「咲ちゃんの宝物だったこのビー玉、僕に、くれないかな?」
「でも……」
 どう見ても見劣りするそんなビー玉でいいのだろうか、と言いたげな咲の表情に功が笑う。
「もちろん無理にとは言わないよ。でも、僕にとってはこのビー玉が一番綺麗で光って見えるんだ」
 功の手から欠けたビー玉を摘み上げた咲は、それをじっと見つめた。そして、じっと何かを考えるような表情を浮かべてから、その手を差し出した。
「はい」
「ありがとう」
 返されたそれを嬉しそうに受け取った功に、咲はビー玉の瓶を手の中で弄びながら、はにかむような笑みを向ける。微笑みながらそれを見ていた功が、咲の小さな身体を抱き上げた。途端に、病室の中に楽しそうな笑い声が響いた。
 その光景を見つめながら、不意に、芙美夏の胸が詰まる。
 咲にこんな日常をあげたい。こんな風に、咲だけに向けて与えられる愛情を注いで、咲の居ていい場所を――。
 
 咲だけが特別なわけではないのだと言い聞かせるが、一度胸の中に芽生えた気持ちを、打ち消すことが出来ないでいた。
「ふみかせんせ……」
 呼ばれて我に返り顔を上げた。
「何?」
「いつかえってくるの?」
 不意討ちな質問に、思わず口籠もる。功を見上げると、眉を寄せ何かを考え込むような難しい顔をしていた。
「功、こう」
 呼び掛けに漸く気が付いた功に、咲をベッドへと下ろして貰う。芙美夏は、そのどこか懇願するような眼差しをじっと見つめた。
「……ごめん、咲。先生ね。もう……園には戻らないの」
 咲の瞳から光が消えて、次に浮かんだのは諦めだった。手を伸ばし抱き締めたいと思ったけれど、抱き締めたところで、結局はその手を離してしまう自分にその資格があるのかと躊躇し、芙美夏は、伸ばそうとした指先を握り締めた。
 功が口を開きかけたのを視線で制して、もう一度手を伸ばし咲の頭を撫でた。
「先生ね、怪我を治すのに、まだまだ時間がかかるの。だから、治すために遠くの病院に行ってしまうの。それからね……先生はこの人の」
 見上げると、功はまだ難しい顔をしている。
「知ってるよ。お嫁さんになるんでしょ」
 俯いた咲が、小さな声でそう呟いた。
「……うん。咲や皆と、もっとずっと一緒にいたかった。先生、咲が大好きだから……」
 きっと言い訳のようにしか聞こえないのに、そんな事しか言えない自分が悲しくなる。
 咲は、知っているのだ。
 ――私も、いなくなる先生や友達がどんな事を言ってくれても、自分の元には戻って来ないと、わかっていた。

 辛うじて、謝る言葉は飲み込んだ。けれど、明らかにさっきより沈んでしまった咲の、我慢して諦めてしまった顔を見つめていると、その姿が小さな頃の自分と重なり胸が痛くなる。
 咲は、小さな手を握り締めて顔を上げると、芙美夏に笑顔を向けた。
「ふみかせんせいも、きれいな花嫁さんになる?」
「え……?」
「白いふわふわのドレス着るの?」
 咲の質問への答えに詰まりながら、思い出したことがあった。
 以前に園の皆で札幌に出掛けた時、ちょうど教会で結婚式をしている所に出くわした。女の子達は特に、ウエディングドレスを着た美しい花嫁の姿に夢中で視線を送っていた。
 ――綺麗な花嫁さんね……。
 あの時、誰かが子ども達にそう話していたのを、咲も覚えているのだ。
 その時、功がもう一度咲を抱き上げ、さっきまでとは違う、どこか吹っ切れたような優しい笑みを浮かべた。
「ああ。芙美夏せんせいは、すっごく綺麗な花嫁さんになるよ。ふわふわのドレスも着る。咲ちゃんも見たい?」
「みたいっ」      
 嬉しそうに答えた咲が、やがて沈んだ顔をして口を結んだ。
「どうした?」
「……けど……遠くまで行けないもん」
 功が笑いながら咲の頬を撫でて上を向かせる。
「見られるよ」
「ほんとう?」
 咲の顔が、再び輝いた。
「功……?」
 芙美夏にも笑顔を見せながら、功は咲の小指に自分のそれを絡めている。
「ほんとうだよ。約束だ」
 嬉しそうに指切りする二人を見ながら、芙美夏は戸惑いを隠せずにいた。

* * *

「どうした?」
 咲を見送った後、功はベッドに腰を下ろしてから、沈んだ表情をしている芙美夏の頬を指でなぞった。功を見上げた芙美夏の顔が、強張っているのがわかる。
「咲に、どうやって結婚式を見せるの? あんな約束までして」
 功は、笑いながらそれに答えた。
「芙美夏。こっちで、結婚式を挙げないか?」
「え……?」
 芙美夏の瞳が大きく見開かれる。
「勿論、芙美夏の身体のこともあるし、父さんの事もあるから、先のことにはなるだろうけど」
「でも」
「大丈夫。もしもどうしても向こうで式を挙げる必要があったとしても、だからと言って、こっちで式を挙げられない理由はない。だろ?」
 まだ戸惑ったように功を見上げている芙美夏に、もう一度笑顔を向ける。
「……いい、の?」
「ずっと考えてたんだ。本当に祝って欲しい人たちだけを招待して、落ち着いたらこっちで、小さくてもいいから結婚式を挙げよう」
 頬に触れていた功の手を取り、芙美夏はそれを握り締めた。
「……功」
「何?」
「ありがとう」
 ようやく笑みを浮かべた芙美夏の瞳の奥に、それでもまだ晴れない思いがあるのが透けて見える。芙美夏が掴んでいた手をそっと放し、功は、ベッドサイドに椅子を持ってきてそこに腰掛けた。
「もう一つ。大事な話があるんだ」
「……何」
 急に真剣な表情を見せた功に、芙美夏が改まるように背筋を伸ばした。
「咲ちゃんを。……引き取りたいって思ってる」
「こ……う?」
 思い掛けない言葉に、芙美夏は、その意味を飲み込むように黙り込むと、やがて唇を引き結び苦しげに首を横に振った。
「そんなの……無理」
「どうして? 俺はそうは思わない。色々と難しい問題があるだろう事もわかってる。けど」
「そんなこと、一時の感情に流されて決めていいことじゃない。功、同情じゃないって言える? それに、学園にいるのは咲だけじゃない。咲だけを特別扱いなんて」
「特別だよ」
 迷いのない功の口調に、芙美夏が思わず口を噤む。
「特別なんだ、あの子は。俺だって悩んだ。ずっと、芙美夏が言ったようなことだって勿論何度も考えたよ。正直言って、俺があの園の子どもたちを全員引き取ることは出来ない。慈善で言ってるわけじゃないんだ。君が、子ども達の中から咲ちゃんだけを選ぶような事が許されないと思う気持ちだってわかる。だけど」
 功は、ベッドサイドのテーブルに置かれた熊のポーチの中から、咲のビー玉を取り出す。そしてそれを、芙美夏の手のひらに乗せた。
「咲ちゃんを選ぶんじゃないんだ。あの子が……俺の前に現れたんだよ。芙美夏、君が、俺の前に現れたのと同じなんだ」
 手に乗せたビー玉が、揺れている芙美夏の気持ちを現すように、手のひらの上で小さく動く。上から蓋をするように手を重ねて、それを強く握り締めた。
「同情じゃないって言い切れるよ。君だって、本当はわかってるはずだ。芙美夏、今ここには俺しかいない。先生としてじゃない君の本当の気持ちを、聞かせてくれないか」
「本当の、気持ち……?」
「そうだ」
 顔を上げた芙美夏が、何度か躊躇うように口を開いては噤む。
「私……」
「うん」
「功、私……ほんとは」
「……うん」
「ほんとうは、咲に……家族を……」
「ああ」

 零れ落ちていく芙美夏の本音を聞きながら、功は、遠くない未来、芙美夏と咲が笑いあっているだろう風景を思い浮かべていた。
 それを守るために、自分が存在するのだと思える程、それは愛しい風景だった。
 芙美夏の時のことを考えても、咲を引き取るために乗り越えなければならないことは多い。そして引き取った後も、咲に苦しい思いをさせることがあるかもしれない。ましてや、今度は正真正銘、二条の当主の養子として迎えるつもりなのだ。
 芙美夏との婚約の件も含めて、本当はもう、打てる手を父と共に考えていた。
 手に入れるもののために、自分が手放す物や背負うものは重々承知している。それでも、引き換えにすることには何の躊躇いもないほど、それは功にとって、何よりも価値のあるものなのだ。
 気持ちを口にした後も、まだ迷っている芙美夏を見つめる。
「もちろん、咲ちゃんの気持ちが一番大事だ。時間はあるから。ゆっくりと二人で、……いや、三人で考えて決めよう」
 しばらく口を噤んでいた芙美夏は、その言葉にようやく頷くと、手の平に残されたビー玉を握り締めた。ポーチの口を開いて向けると、その中にそっと大事そうにガラスの玉を仕舞い込む。
 功はそれを再びサイドテーブルに戻して、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ、帰るよ」
「……うん」
 その言葉に、ほんの微かに視線を逸らした芙美夏を見ていると、功の胸も小さく痛む。いつでも、見舞いに訪れた功が帰る間際に芙美夏が見せる表情が、何を言わなくても彼女の気持ちを伝えていた。
「芙美夏」
 もう一度功に顔を向けて、今度は笑みを浮かべようとしたその唇を塞ぐ。
 見開かれた目がゆっくり閉じていくのを目を閉じずに見つめながら、功は何度も確かめるように、味わうように、キスを重ねた。
 やがて甘い唇から離れると、少し熱をもったように、さっきとは違う意味で揺れている芙美夏の瞳を見つめる。今度は、こちらが離れ難くなっているのに気がつき、功は、今のは逆効果だと心の内で苦笑いした。
「帰りたくなくなるな」
 目覚めた頃よりややふっくらとしてきた頬を、そっと撫でる。
「淳ちゃんに怒られてもいい?」
 くすぐったそうにクスクスと笑った芙美夏は、やがて真剣な眼差しで功を見上げた。
「功……」
「ん?」
「何が、咲にとって一番幸せなのか、ちゃんと考えてみる。だから、功ももう一度考えて」
「ああ。わかってる」
「……功」
「何?」
「……大好き」
 もう一度軽く彼女にキスをして。
「知ってる」
 そう頷いてから、功は笑みを浮かべたまま、病室を後にした。


fin

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