本編《雨月》

第十二章 雨隠4



「――はい、そうですか。それじゃあ、お大事にとお伝え下さい」
 通話を終えた真那が、風太を見上げて首を横に振った。
「やっぱり、風邪で寝込んでるから当分仕事も休ませるって。電話、本人に繋いでもらえそうな雰囲気じゃなかったです」
「そうか」
「お見舞いに行きたいって言ったら、お母さん、ちょっと動揺してたっぽかったです」
「悪かったな、こんなこと頼んで」
 珠恵の同僚である真那の答えを聞いて、風太は静かに溜息を吐いた。

 翔平に頼んだ行先は珠恵の勤める図書館だった。運良くカウンターに入っていたのは真那で、仕事が終わってから話がしたいと声を掛けると、目を丸くしながらも「三十分ほど待ってもらえば」と素早い返事が返ってきた。
 先に学校へ行けという風太に首を横に振った翔平と二人、日の暮れた公園のベンチに並んで腰を下ろして。初めのうちは話し掛けてきた翔平も、上の空な答えを繰り返す風太にやがて口数が減り、二人して黙ったままで、真那の仕事が終わるのを待った。
 予告通りの時間に図書館から出てきた真那に、彼女を訪ねた意図を掻い摘んで説明すると、当然ながら、風太と珠恵の関係を知らなかった彼女は、初めのうちは目を丸く――いや、どちらかといえばキラキラとさせ好奇心を隠そうともせずに話を聞いていたが、珠恵と連絡が付かないことを告げた途端、その表情を曇らせた。
 実は昨日、珠恵の母親から職場に、体調不良のため娘を数日休ませたいと連絡があったのだ――と言って。
「風邪って言ってたみたいだけど、今まで福原さん、殆ど休むことってなかったし、お休みの時はちゃんと自分で連絡してきてたし。だから、よっぽどなのかなーって、みんな心配してたんです。なのに、それって本当は風邪じゃないかもってことですよね」
 そう続けた真那は、自身の携帯からも連絡がつかないことを確かめてから、珠恵の自宅へと電話を掛けてくれたのだった。
 応対した母親の様子を風太に告げた後、しばらくの間難しそうな顔をしていた真那は、何かブツブツと独りごちてから、顔を上げ風太へと視線を向けた。
「あの……明日まで待って貰えたら、もしかしたら福原さんの本当の様子がわかるかも」
 公園のベンチに腰を下ろし、もうライトの落とされた図書館の建物を見遣った真那は、手にした携帯を鞄にしまうと、風太の顔を見つめた。
「福原さんには、弟さんがいるんですけど、知ってますか?」
「いるって、ことだけは」
「結構仲いいみたいで、福原さん、時々弟さんに頼まれて本を借りて帰ることがあって」
「ああ。……で?」
「弟さんも、何度か自分で本を借りに来たこともあるから、もしかしたら連絡先が分かるかもしれないって思って」
「けど、それって、大丈夫なのか」
「そりゃ、本来の目的からいったら駄目ですけどね」
 小さく舌を出してからニコッと笑った真那に、迷惑を掛ける訳にはいかない、と言ってはみたが、一度乗りかかった船だからと彼女は引こうとしなかった。
「確か、なんか弟さん……特にお父さんとは、ちょっとうまくいってないみたいで、大学の研究室とかに入り浸ってあんまり家にいないようなこと言ってた気がします。だから、うまくいけば、こっちの味方になってくれるかも」
 味方――という言い回しには内心苦笑したが、今は、どんな手段を使おうと、珠恵の様子がわかるのであれば、それを頼みの綱にするしかない。弟と話せたら連絡する。そう言ってくれた真那と連絡先を交換して、その日は彼女と別れた。
 本人なりには真面目なのだろうが、別れ際の真那の「頑張って下さい。私、お二人のこと、超応援しますから!」という、深刻さを感じさせない口調と好奇心に満ちた表情に、ほんの少し、救われた気がした。

 ***

 携帯が振動しているのを感じ、足を止めてポケットから取り出す。表示されている見知らぬ番号を怪訝に思い、しばらくの間、迷いながら画面を見つめていた。
「昌也? 出ねえの?」
 一緒にいたゼミの仲間に問われて、昌也は、いや――と首を横に振った。
「悪い、ちょっと先行ってて」
 そう友人に声を掛け、まだ鳴り続けているコール音に応答した。
「もしもし――」

 玄関の鍵を開け、靴を脱ぎ捨てたままリビングへと向かう。母が家にいる時にはたいてい家事のために動き回る気配が感じられるそこが、今日は静まり返っている。
 ノブを握りガラスの扉を押し開いて、少し驚く。誰もいないと思っていたリビングのソファに座った母親が、ビクッと身体を揺らしてこちらを振り返った。
「あ、……昌也?」
 いつも、家の中でも綺麗に身なりを整えている母が、ほつれた髪もそのまま、化粧気もないどこかやつれたような顔に慌てて取り繕うような表情を浮かべる。
「こんな時間に珍しいわね、どうしたの?」
 髪を撫でつけながら立ち上がった母親を見ながら、昌也はいつもとは違う空気を感じていた。父が家に居ない時は、少しだけ肩の力が抜ける母が、今日はまるで父が居る時のように気を張り詰めている。
「お父さん、いるの?」
 その疑問をそのまま口にした。
「いいえ、お父さんはお仕事よ。今日は平日でしょ」
 ぎこちなく笑みを浮かべた母を見て、やはり何かあるのだと確信した。
「姉さんは?」
「え?」
 探るように問い掛けると、明らかに狼狽えた双眸が、無言のまま昌也から逸れていく。
「お母さん、姉さんは?」
「昌也、あのね」
 顔を上げ、何かを口にしかけては迷うように閉じることを繰り返した母の言葉を最後まで聞かずに、踵を返すと、そのまま階段を上がり二階の姉の部屋に向かった。
「昌也っ」
 背後から慌てた声が聞こえ、昌也を追いかけて母が階段を上ってくる足音がする。振り向くこともせず、昌也は姉の部屋の前に立ちドアをノックした。
「……はい」
 小さいけれど、確かに姉の声が聞こえた。
「姉さん、俺。入るよ」
「え? まあ君?」
「昌也、珠恵は風邪で」
 背後に立つ母の力ない声を耳にしながら、ドアノブに手を掛けた。
「――え?」
 いつもならスムーズに回るはずのそれが、動かない。
「何これ……鍵、かけてるの」
 唖然と後ろを振り返り、顔色をなくした母親を見遣った。
「どういうこと、これ」
「昌也、あのね」
「閉じ込めてるのか、姉さんを」
「違うの、それは」
「違わないだろ。お父さん……だよな。こんなことさせてるの」
 首を小さく横に振る母の強張った表情に、怒りが込み上げてくる。
「鍵出して」
「でも」
「お母さん、鍵」
「だけど、珠恵は」
「出せって言ってるだろっ。何があったか知らないけど、どう考えてもおかしいよこんなの。監禁じゃないか」
 いつもは大人しい昌也が、突然怒りを露わにしたことに動揺したのだろう。目を見開いた母が、慌てて後ずさり階段を下りようとしている。
「お母さん」
 息を吸い込み少しだけ呼吸を落ち着けてから、昌也は静かな声色で、その後ろ姿に呼び掛けた。
「お父さんに連絡するつもり?」
 振り向いた母の表情は、影になっていてよくわからなかった。ただ、その首が横に振られるのを確認して、ホッと息を吐く。視線をドアへと戻してみたが、扉の向こうにいる姉の存在は、声が聞こえなければ何も感じられない。中で動き回っている様子もないようだった。
「姉さん? 大丈夫?」
 もう一度静かにドアを叩いて、声を掛ける。
「まあ君、お母さんを、怒らないで」
 掠れた細い声がドア越しに返ってくる。後ろを確認してから、潜めた声で話し掛けた。
「声、聞こえる?」
「どうして居るの? あれ……? 今日、何日だった?」
 あまり家に寄り付かない弟の、不意の帰宅を訝しむような声が聞こえる。その声色からも、姉の疲弊が感じられた。
「真那さんって人から、連絡を貰ったんだ」
「真那ちゃん? え? なんで」
「頼まれたって。森川さん……って人に、」
 ドアを挟んだ見えない向こう側で、小さく息を呑むような気配がする。
「……もりかわ、さん」
 呟くような姉の声が、微かに揺れた気がした。


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