明け方、空が白み始めた頃、森川と二人でホテルを後にした。あれだけ降っていた雨はもう上がっていて、けれど濡れたアスファルトとまだそこここに残る水たまりや時折落ちてくる水滴の様子で、ついさっきまで降っていたのだろうことがわかる。
珠恵に合わせるように、ゆっくりと先を行く森川の後ろを、背中を見つめながら歩く。
その背に咲いている季節外れの桜の花と、遊ぶように浮遊する天女に、夕べ確かに何度も触れた。触れてしがみ付いて指でなぞって、乞われるままに口づけを落として。まるで、森川と共に見上げたあの日の桜に、抱き締められているような気がした。
ふと気が付くとその背中が立ち止まっていて、慌てて同じように足を止める。髪に手をやりながら、森川が振り返った。
ずっと見つめていたことや、頭の中で思い出していたことを見透かされそうで、恥ずかしくなって珠恵は少し俯いた。
「……からだ」
それだけを言った森川が、なぜか口籠るように黙ってしまったのを怪訝に思い、顔を上げる。
「辛く、ねえか?」
「え?」
「結構……無理させたからな」
「へ? あ、……え、あの……」
途端に、森川の問うた意味がわかり、顔が火照ってしまう。確かにあちこちに気怠い痛みは残っている。歩き方も、少しぎこちないかもしれない。けれどそれは、辛い、というのとは違う。
「だい、じょうぶ……です」
辛うじて呟くように答えると、数歩に満たない距離を詰めた森川の手が、珠恵の手を取り、愛華に借りた薄手のパーカーの袖に隠れた手首をそっと捲った。
「まだ、痛むか」
手首を動かすとまだ微かにひりつくような痛みを感じたが、夕べのような熱っぽさは殆ど消えていた。門倉の痕跡を見られているのが嫌で手を引こうとしたが、森川の手がそれを許さない。森川以外の男が与えた痛みを認めたくはなくて、珠恵は首をそっと横に振った。
「……そう、か」
もう一度そこに視線を送った森川は、それ以上何も問わず、けれど手を離すこともなく、指を珠恵のそれに絡めて歩き始めた。
まだ朝も早く、時折ジョギングをする人や犬の散歩をしている人とすれ違う。ドキドキしながら、大きな温かい手に包まれたままで、しばらく黙って手を引かれながら歩く。
その手をギュッと握り返すと、森川が歩みを止めた。視線を上げると、どこか少し不機嫌そうな顔がこちらを見ている。
「あのな……」
「はい」
緊張しながら見つめ返すと、森川は、顔を逸らしてまた歩き始めてしまった。
「したこと……ねえから」
ぼそっと、そんな声が聞こえる。
したことねえから――珠恵にはそれが何を指しているのかがわからず、並んだ森川を問い返すように見上げてみる。こちらを見ないまま、いやむしろ顔を背けるようにしたまま、「だから……」と言い淀んだ森川が、珠恵と繋いだ手を持ち上げた。
「これ」
その仕草に、思わず足を止めてしまう。
「……え?」
珠恵に引き摺られて立ち止まった森川の背中が、深く溜息を吐くのをぼうっと見ていた。
「恥ずかしいこと言ってっから、あんま見るな」
「森川、さん」
「いくぞ」
「……はい」
この人が。これ位のことに慣れてない訳がない。それは珠恵にだってよくわかっている。あの時森川が一緒にいた人も、女性らしい魅力に溢れたとても綺麗な人だった。森川の知り合いと顔を合せる度に、いつもとタイプが違う、と何度も言われた。だから、今森川が言ったことはきっと本当のことではない。それでも、嬉しい。嬉しくて少し泣きたくなる。
「……嘘だと思ってんだろ」
「え、あ……」
見透かすよう問われて、思わず口籠る。
「俺も、嘘みてえだと思ってる」
ボソッと口にしながら、頭を掻くように髪に指を入れて、振り向かずに歩く森川に遅れないように、足をはやめて隣に並ぶ。
繋がれた手から伝わる温もりを少しも逃したくなくて、珠恵は、そこを見つめながら指先に力を入れてみた。すぐに、応えるように包み込む手に力を入れてくれるのが伝わる。そのことに胸が一杯で、鼻の奥がツンと痛くなった。視線を交わさなくても、指先から確かに森川の心が伝わって来る。
この手があるなら、そのために何かを失うのもきっと怖くはない。
もしも怖くても――それでも、きっと、この手を取ってしまう。
そんなことを思いながら、繋がれていない森川の手を見た途端、珠恵は、あっと声を上げた。
「どうした?」
「傘を……あの、森川さんに買ってもらった緑色の」
「ん? ああ、駅前のスーパーで買ったやつ」
「昨日電車に、置き忘れてしまって……すみません」
「ああ。それで夕べ、傘持ってなかったのか」
珠恵に向けた森川の顔に、微かに笑みが浮かぶ。
「あんなの安もんだし、別に構わねえよ」
「でも、森川さんに、貰ったものです」
「ん?」
「あの傘。初めて、貰ったもので、だから……凄く、あの……気に入ってたから」
「あー、まあ、置いて来ちまったもんはしょうがねえな」
「……はい」
くっと笑う声が聞こえて、ふと顔を上げる。
「そんな顔、すんな」
そんな顔――。未練がましい顔をしていただろうか。多分きっとそうだ。
「傘くらい、また買ってやる」
「え、あ、そんなつもりじゃ」
「何? 俺には傘を買う甲斐性もねえって思ってんの」
「い、いえ、そんなことは思ってないです」
慌てて否定する珠恵を見る森川は、口元に笑みを浮かべている。
「これから……いくらでも買ってやるよ」
柔らかな口調に言葉もなく顔を伏せた珠恵の身体が、温かなもので包み込まれる。慈しむように抱き締めてくれるその胸に顔を伏せると、心地良さに何も考えられなくなる。
「今度は、もっといいやつ」
胸元で、顔を小さく横に振った。
「同じで、構いません。次は……もう、失くしたりしません」
抱き締める腕に力が入ったと思ったその時、頭上で森川が小さく舌打ちするのを感じた。
「こんな朝っぱらから、人んちの前で何やってる」
不意にすぐそばから声が聞こえて、慌てて腕の中から離れる。
「邪魔すんな」
森川の不機嫌そうな声に顔を上げると、そこに、まだ寝間着姿の吉永が立っていた。よく見ると、ちょうど診療所の裏手を歩いていたらしい。
「邪魔されたくなけりゃ、そういうことは家の中でやれ……ったく」
「次からは、そうするよ」
「なんだ、お前ら朝帰りか? えらく早え時間だな。まあ、お盛んなのはいいが……お前、それ、犯罪じゃねえのか」
「は?」
「ちょっと……若すぎるだろ」
チラッと珠恵に視線を送り眉根を寄せた吉永に、羞恥も忘れて森川と顔を見合わせる。
「……ああ。こんな恰好してるからか。愛華の服だしな」
どうやら、珠恵に気が付いていないらしい。こんな時間に顔を合せている気まずさや、抱き合う姿を見られた恥ずかしさを感じながらも、頭を下げて、恐る恐る口を開いた。
「あ、あの、私」
「ん?」
「あの時……森川さんと一緒に」
「あの時?」
「森川さんが、あの……怪我をして」
「……あ。あん時のお嬢ちゃんか」
「は、い。あの、おはよう、ございます」
「あ……ああ」
ようやく珠恵を認識したらしい吉永は、逆に戸惑っているのか、半ば口を開けたまま珠恵の姿を上から下まで眺めて、再び二人の顔を交互に見ている。
「で……なんだ、ほんとに喰われちまったのか」
カッと顔に血が上り、視線を落とす。隣で森川が、呆れたように深く溜息を零した。
「もうちょっと、言い方があんだろ」
「お前……」
何かを口にしかけて、吉永が口籠る。恥ずかしさに顔を上げることができない珠恵は、その時吉永と森川が意味ありげに視線を交わしていたことには気が付かなかった。
「……ふう、ん、そういうことか」
ポストから新聞を取り出した吉永が、背中を向ける気配がして顔を上げた。
「へえ……なるほどなあ」
不思議に思いながら森川を見上げると、苦笑いして、「行くぞ」と促される。慌てて吉永の後ろ姿に頭を下げ、その後を追った。
二人の足音が遠ざかるのを聞いて、足を止めた吉永が振り返った。これまで何年も見てきた風太の、あんなに落ち着いた表情を、初めて見た気がしていた。
「いや、あの風太がなあ……」
寄り添っていた一見大人しそうな女性が、風太に付き添い病院に現れた時のことを思い出す。動揺しながらも必死で治療を手伝っていた姿を思い浮かべて、頬が緩んだ。
「……そうかそうか」
首の後ろに手を廻して、左右に揺らしてから。
二人の後ろ姿から顔を逸らした吉永は、大きな欠伸を一つ落とし、玄関へと足を向けた。