本編《雨月》

第十一章 雨と渇求2



「起こしたか」
 風太は、静かに息を吸い込んで、平静を装い声を押し出した。
「……いえ」
 微かに首を振り唇を引き結んだ珠恵は、一度上げた視線をまたすぐに逸らしてしまった。
「まだ、夜中だ。朝には送ってやるから、もう少し眠っておけ」
「……森川、さんは」
「俺は、もう眠くない」
「あの……じゃあ私も」
 さっきから、こちらを見ようとしない珠恵の態度は、どことなく羞恥のせいだけではないような気がした。
「シャワー、浴びてくるか? 拭いただけじゃ気持ち悪いだろ」
 浴室へと僅かに視線を向けた珠恵が、小さく口籠る。
「でも……あ、あの……ここの、お風呂」
「……ああ」
 思わず苦笑した。いくら身体を重ねたからといって、珠恵が堂々と入れるタイプの風呂では確かになかった。
「大丈夫だ。ちゃんと後ろ向いててやるから」
「あっ、そんな、の、興味ないってわかって」
「あるよ」
 慌てて口にする珠恵の言葉を最後まで聞かずに否定すると、やっとその瞳がまともに風太を捉えた。目元を赤く染めたまま、こちらを、丸くなった大きな目が見つめている。
「本音を言えば、今すぐもういっぺん押し倒してえくらいな」
「……え……あの、いえ、……そんなの」
 途端にしどろもどろになる珠恵に悪戯っぽい笑みを見せると、赤くなりながら、からかわないで下さい、と呟いて俯く。
 躊躇いながらも珠恵がシャワーを浴びる為に浴室へ向かうと、風太は、バスルームに背を向けてベッドに横たわった。
 律儀に約束を守っている自分が可笑しかった。あんな風に、素肌を見せることすら恥じらうような女と関係を持ったこと自体が初めてで、風太にとっても珠恵の見せる反応は新鮮なものだった。背中に目が付いていればいいのに、とさえ思う自分に呆れて、吐く息に薄く笑いが混じる。
 何気なく頭を動かすと、ベッドサイドの鏡にバスルームが映っていた。背を向けてシャワーを使う珠恵の裸身が映るそこからそっと視線を逸らして、風太は、小さく溜息を吐き彼女の匂いが残るベッドに顔を伏せた。

 シャワーの音が止み、しばらくしてから、部屋の中へと戻って来る人の気配を感じた。顔を振り向けると、愛華の服を着た珠恵がベッドの手前で立ち止まる。普段とは違う格好をしてるせいか、いつもより幼く、どこか知らない人のようにも見える。
 落ち着かない様子でそこに佇んだまま、彷徨わせた視線が止まった先に、珠恵の鞄が置かれていた。痛みを堪えるかのように口許を引き結んだ珠恵は、ゆっくりとそちらへ足を向けると、立ち止まり息を吐くように肩を落とした。
 鞄を手に取り振り返る珠恵を見ながら、風太は、ベッドの上に身体を起こした。
「帰り、ます」
 先に口を開いた珠恵が、笑みを浮かべてみせる。けれどその唇は、やはり微かに震えて見えた。こんな顔をさせたかった訳じゃない。それなのにずっと、彼女のこんな顔ばかりを見ている気がした。
「こんな時間にか」
「はい」
「どうやって帰る」
「……タクシーで」
「送るって言っただろ」
「い、え……」
「一人で帰すつもり、ねえから」
「ずっと一緒にいたら」
 風太の言葉を遮った珠恵の声が、僅かに大きくなる。
「そばにいて優しくされると……私」
「……何?」
「錯覚して、しまうから」
「何を」
 ベッドから立ち上がりゆっくりと近付いていく風太に押されるように、珠恵は、目を伏せたまま、少しずつ後ずさっていく。
「あ……あの、……ありがとう……ございました」
「なんの礼」
「それ、は……あの」
「礼を言われるようなこと、した覚えねえけど」
 壁に突き当たった身体が、動きを止める。俯いた珠恵の震える細い肩を見つめながら、ありがとうと言われたことに、風太の中に怒りとも悲しみともつかない感情が湧き上がっていた。
 鞄を握る手に力を入れた珠恵が、顔を上げた。苦しげな瞳が、風太を見つめる。
「私みたいな女に……優しくしてくれて」

 必死な表情で、振り絞るようにそう口にした珠恵の身体の横に手を付き、両腕で逃げ道を塞ぐ。目を見開き口を噤んだ珠恵を、風太は射るように見据えた。
「抱いてくれてありがとうって、言われて俺が喜ぶと思ってんのか? で、あんたは俺を置き去りにして、一人で家に戻って。一人で、勝手に俺を忘れて、そんで好きでもねえ男と、あんたを大事にもしねえそんなカスみてえな野郎と一緒になんのか?」
「もり、かわさん?」
 戸惑った顔で風太を見つめた珠恵の首が、大きく横に振られる。
「忘れたり、しません……森川さんのことは、ずっと」
 珠恵を見つめながら、頭で考えるよりも先に、口が勝手に動き出してしまっていた。
「そばに居ない男を、ずっと想っていられると本気で思ってんのか?」
「はい」
「……忘れるよ」
「忘れません」
「あんたは俺を忘れる」
「忘れたり、しませんっ……忘れたり……しない」
「何でそんなことが言える。そばにいてさえ、俺の存在を消せる人間だっているんだ。他人のあんたが、何で俺を忘れないって言える? 忘れなくても……そばに居ねえなら、忘れたのと同じだろ」
 驚いたように風太を見つめた珠恵の瞳が揺れる。風太自身も、自分が口走った言葉に動揺していた。
「違います、私、は……」
「冷たいんだ」
 小さな手を取り、風太はそれを自分の胸へと押し当てた。
「ここが」

 胸元を見つめた珠恵の瞳が、ゆっくりともう一度風太の顔を見上げる。その目を、食い入るように必死で見つめていることに、風太は気が付いていなかった。
「ずっと、冷たかったここが、あんたといると……少し温かい」
「もり、かわ……さん」
「俺が、好きか?」
「……わ、たし、は」
 狼狽えて再び顔を逸らした珠恵が、頬を朱く染める。
「さっきそう言ったよな」
「……忘れて、下さい」
「勝手だな。あんたは忘れねえのに、俺には忘れろって言うのか」
「だって……それは、私が勝手に」
「あんたが言ったんだ。俺に抱かれながら何度も、何度も好きだって」
「それ……は……」
 続く言葉を見つけられず閉ざされてしまった珠恵の唇が震えて、瞳から落ちた雫が床に吸い込まれていった。
「忘れるつもり、ねえから」
「もう……いいです……」
「何がもういい」
「もう……充分です。きっと森川さんは、私が、は、はじめてだったから……だから責任を感じて」
「珠恵」
「どうして……」
 風太を見ようとしないまま、混乱した瞳が苦しげに細められる。
「珠恵」
「……どうしてそんな風に呼ぶんですか」
 珠恵の問い掛けには答えず、繰り返し答えを乞う。
「俺が、好きか?」
 首筋まで薄く桜のように肌を染めた珠恵の、瞬いた双眸から涙がまた零れ落ちた。
「答えて、くれ」
 迷うように揺れ動いた瞳を強く閉じて俯いた珠恵は、やがて顔を上げると、何かを振り切るように風太を真っ直ぐに見つめた。
「――すき……です」
 呟くように、珠恵が答える声が胸に届き、冷たいそこに温もりを灯す。
「……もう一度」
「森川さんが……好き、です」
「もう一度」
「好きっ――」
 壁から引き剥がすように腕を引き、珠恵を胸の中に抱き寄せる。おずおずと風太の背中に廻された腕に縋り付くような力が込もり、鞄が床に落ちる音がきこえた。
 それを合図にするように、頬を引き寄せ上を向かせた珠恵に、唇を重ねる。見開かれた涙に濡れた目を見つめたまま、何度も風太を好きだと言った唇に、激しく、咬みつくようなキスをしてそこを開かせた。
「……っん」
 涙の味がする口内で全てを奪い尽くすように強く舌を絡め取ると、珠恵の舌がそれに応えようとする。激しく唇を合わせ、互いの吐息を交じり合わせるうちに、いつしか二人の間にあるのは、重なる口元から響く音と、時折零れる息遣いだけになっていた。

 ようやく唇を離すと、もう足元に力の入らなくなっていた珠恵の身体を、抱き上げて再びベッドに戻る。
「森川、さん?」
 ベッドに座らせた珠恵の、まだどこか戸惑いを浮かべている顔を見つめた。重ねていた唇が、濡れて熱っぽく腫れている。そっとそこに指で触れながら、笑みを浮かべた。
「全部、教えてやるって言ったよな」
「え?」
「今度は俺が教える番だって」
 言葉の意味を理解したのだろう、恥ずかしそうに目を伏せた珠恵の頬に、そっと触れる。
「まだまだ、たくさん教えることがある」
「……あ、の」
「一晩じゃ、全然足りねえ。だから」
 華奢な身体を、そっと胸元に引き寄せた。
「ここに居ろ」
 顔を上げた珠恵が、まるで時が止まったように、目を見開いて風太を見つめた。その目が、信じられないものを見るように何度か瞬きを繰り返す。
「もり……かわ、さん?」
 震える声が、風太に問いかける。
「……ん?」
「そばに……居てもいいん……ですか」
「ああ」
「……ずっと?」
「ああ」
「だって……でも」
「多分あんたは、俺と居るために、何かを捨てなきゃならない」
 珠恵の気持ちを利用して、自分のエゴでその人生を汚してしまうかもしれないことが堪らなく怖い。それでももう、風太は珠恵を手放したくはなかった。
 胸元で、珠恵が首を横に振る。
「きっと、後悔する……それでも」
「しません」
 遮るように口にして、風太を見上げた珠恵がハッキリと言葉を重ねた。
「後悔は、しません」
 視線の先で、震えながら小さな弧を描いた唇が動く。
「だって……森川さんが、います」
 深く吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出して風太は苦笑いした。
「ほんと、ロクでもねえ男に、掴まったな」
 そう呟いた風太を、珠恵が見上げる。腕の中にいる柔らかな温もりに、初めて胸の中が満たされること知った気がした。
「肌じゃねえ」
 珠恵の手のひらを、鼓動を刻む胸に押し当てる。
「あんたが刻まれるのは……俺のここだ」
 風太を見上げた瞳から、ポロポロと綺麗な涙が零れ落ちた。それを拭うことなく、手をあてた胸元に顔を寄せた珠恵は、そこにそっと柔らかな口づけを落とした。
 涙に濡れた唇が肌に触れた瞬間、まるで命を吹き込まれたように、心臓がドクッと脈打つのがわかった。
「――俺の、だ」
 顔を上げた珠恵を掻き抱き、耳元に唇を寄せる。
「もう……誰にもやらねえ」
「もりっ…ん」
 言葉を口にするために開かれた唇をその言葉ごと呑み込んで。
 縋り付くように両手を風太の背に回した珠恵を、もう一度ベッドに沈めた。


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