「お疲れー」
「お疲れ様です」
すれ違う職員やパートの従業員に挨拶をしながら、職員用の出口へと向かう。
扉を開けて外へ出た珠恵は、昼からずっと降り続く雨に、手にしていた傘を広げて、天気のせいだけでなく薄暗くなり始めた公園へと視線を移した。
雨垂れの音、滴に濡れた木々や草花、湿った土の匂いと、行き交う色とりどりの傘。
雨の日になるといつもより酷くなる胸の奥にあるヒリヒリとした痛みを、まだ、どう遣り過ごせばいいのかわからずにいる。
雨にけぶる公園の景色から視界を遮るように傘を落として、柄を握る手に力を入れ濡れた遊歩道に足を踏み出した。
今日は早番の18時上がりだったから、まだ開いている図書館のガラス張りのロビーを外から眺めながら、公園内を横切りメトロの駅へと向かう。雨を遮る幾何学模様の緑の傘を打つ音が、また少し激しさを増していた。
――福原さんさあ、ここ辞めるって本当?
勤務中の木内からの問い掛けに、何か引っかかるものを感じていた。もう、ここを辞めることが確定しているかのような口ぶり。
見合いをしたことを話したのは、板野と真那だけで、二人には内緒にして欲しいとお願いしたはずだった。それなのに、なぜこんなにも早く噂が広がっているのだろうか。どちらかが、つい口を滑らせてしまったのか、それとも誰かに見合いをしているところを見られていたのか。
いずれも可能性はあることだが、見合い相手の情報まで知れ渡っていることに、やはり腑に落ちなさを拭えない。
木内が言い当てたように、今日は、その見合い相手の門倉と会う約束をしていた。
公園を抜け、メトロの入口の明かりが見えると、微かな息苦しさを感じた。これから会う人のことを考えると、足取りが重くなる。二人でいることにまだ慣れていないから、多分緊張しているだけだと、何度も自分に言い聞かせる。
切れ長の涼しげな瞳が、冷静に、ともすれば観察するように見つめていた。初めて会った見合いの席で、向かいに座り、その人の両親からの問い掛けに固くなりながらたどたどしく答えていた珠恵のことを。
そして珠恵も、笑う表情さえ計算されたようなその人の、日に焼けていない白く長い指を、まるでテレビ画面の向こうを眺めているような気持ちで見ていた気がする。
自信などではなく、もう確信的に自分の能力を知っている人が持つ、独特の隙のないオーラのようなものに、圧倒され呑み込まれるような感じがした。
二人きりになってからも、珠恵の緊張を解すでもなく、仕事を片付けるかのように今後のことを話すその人の、温度を感じさせない声を聞きながら。それがこれからの自分たち二人の話だと、どうしても実感を持つことができなかった。
傘を畳んで、濡れた手をハンカチで拭い、改札口へとつながる階段を下りていく。慣れないヒール付きのパンプスは、どこか借り物みたいで、歩き方もぎこちない。跳ねあげた雨水がストッキングを濡らしていて、足元が気持ち悪かった。
地下道は、駅へ向かう人と駅から地上へ向かう人とで混雑している。その中を大勢の人混みに紛れ込み、改札口へと向かいながら――。
右手に持った緑色の傘だけが、色鮮やかに珠恵の目には映っていた。
「ねえ風ちゃん、もうやめといたら?」
何杯目かもよくわからなくなったグラスを持ち上げて、「同じの」と声を掛けると、カウンターの中から、呆れたように諭す声が聞こえた。
顔を上げた風太を、ターニャと弘栄が、二人してどこか似たような表情で見ている。目を逸らし、氷しか残っていないグラスを傾け、微かにアルコールの香りを残した僅かな水を喉の奥へと流し込むと、もう一度グラスを差し出した。
「……弘栄さん、これ」
わざとらしく溜息を吐いたターニャが、奥でグラスを磨いている弘栄に目配せをする。ガラスを照明に向け曇りのないことを確かめた弘栄は、それをカウンターの奥に並べてから、新しいグラスに氷を入れ、慣れた手つきで酒を注いだ。
弘栄が作ったそれを、空いたグラスと取り替えて風太の前に置いたターニャは、そのまま真正面から風太を見下ろした。
「ここ最近ずっと、あんたあんまりよくない飲み方してるわよ」
「そう、ですか」
大して関心がなさそうなその答えに、ターニャはもう一度大きな溜息を吐いた。繊細さの全く感じられないゴツゴツとした指を、風太が手を付けていないつまみに伸ばしながら、呆れたように鼻で笑う。
「わかってんでしょ。そんなに不味そうに飲むんじゃ、お酒だって可哀想よ。しかもキツイのばっかり。そんな飲み方しても、やなことは忘れらんないわよ」
「別にそんなんありませんよ」
「嘘ばっかり。最近あんたまともに笑ってないじゃない。翔平ちゃんも心配してたわよ。それに、ここんとこ女関係荒んでるってちょっとした噂だわよ。学校だけは……まあ何とか通ってるみたいだけど。風ちゃん、だいたいあんたまともに寝てるの?」
今まで黙っていた分まで溜まったものを吐き出しているのか、今日のターニャはしつこくてうんざりとする。小さく舌を打ち、風太はグラスの中身を一気に半分ほどあおった。
あれから――
もうふた月近い日々が過ぎていた。
珠恵とどんな遣り取りがあったかを、もちろん誰にも話してはいない。話せるような内容でもなかった。喜世子達には、彼女はもうここには来ないそうだ、とだけ伝えた。
――本当にそれでいいの?
意味深に問う喜世子の言葉の真意には蓋をして。
――相当いい話みたいですよ、よかったんじゃないですか
ただ、そんな風に笑って答えた。
それ以来、時折何か言いたそうな喜世子の視線を感じながらも、それを避けるように日々を遣り過ごしている。
珠恵と知り合う以前の生活に戻った今も、ふとした拍子に脳裏に浮かぶ、最後に目にした彼女の表情が、風太を責め苛んでいる。
辛うじて全てを投げ出さずにいられるのは、親方が倒れた時に、ようやく自分の中に芽生えた責任感やそして罪悪感があったからに過ぎず、仕事と学校以外は、ただ空虚に時間を遣り過ごすだけの毎日が続いていた。
たかが女のことだろうと、空いた場所を埋めるかのように、酒を飲み女を抱いたりしてみても、その穴は埋まることはなく、更に冷たさを増している。
「あんまり取っ替え引っ替えしてると、そのうちワケわかんない女に刺されるわよ。性質の悪いのがついてる女もいるんだし……あらぁ、九条さん、もう帰っちゃうの」
苦笑いを浮かべてグラスを傾ける風太を呆れたように一瞥して、営業用の顔に戻ったターニャは、店を出る客を見送るために少しの間カウンターから離れた。
カウンターには、風太の他に、この店でよく見かける顔馴染みの女が座っていた。ここはゲイバーだが、ヘテロの男や、そして女も入りやすい店になっているため、女性客が一人でいることも珍しくはない。
たまに女なのか女になった元男なのかわからない客もいたが、その客は前者だった。
グラスを傾けながら弘栄に話しかけていたその女が、ターニャがカウンターから消えた途端に、狙い澄ましたかのように風太へと意味ありげな視線を送ってくる。頬杖をついて口角を上げた女に、風太も笑みを返した。
「これ、ご馳走してくれる?」
惜しげも無く晒した足を組み替えた女が、空になったグラスを軽く指で小突く。風太も手にしたグラスを飲み干すと、カウンターの中に向けて声を掛けた。
「俺とその人に同じの」
弘栄がほんの僅かに眉根を寄せた。
「風太さん、もう止めた方がよくないですか」
「……聞こえてますよね、もう一杯って」
冷静に聞こえるその声にも、風太を心配しているのだろう弘栄の態度にも、そしてターニャの小言にも、苛立ちばかりが募る。
「もう、随分飲まれてます。今日はこれくらいになさった方が」
女は興醒めな顔をして、携帯を触り始めた。
何もかもを見透かすような弘栄の視線が苦しくなり、目を逸らしながら苦笑いする。客のすることに滅多に口を出さない弘栄が、こんなことを言うくらい、今の自分は普通でないのだろう。
けれど、その気遣いも含めた全てが煩わしく、感情を逆なでるものでしかなかった。
「……かげん……るせんだよ」
抑制も効かず口をついて出た呟きに、けれどすぐに後味の悪さが込み上げた。
「余計なことを、申し訳ありませんでした」
顔色を全く変えることなく静かにそう口にした弘栄から目を逸らしたまま、風太は立ち上がりカウンターに金を置いて、店のドアの前で待っているターニャの横を通り過ぎた。
「……あの女がどういう女かわかってんでしょ」
「何が」
「後ろに相当ヤバいの付いてるって、あんたも知ってるわよね」
「別に……いいんじゃねえの」
「女とうまくいかなかったくらいで酒に酔って弘栄にまで絡んで。……みっともない。最近のあんたなんか恰好悪い」
客と騒ぐ店員の黄色い声にかき消されて、ターニャが小声で話す声は、後ろには聞こえていない。目を合わさないまま立ち止まった足を進めて、風太は扉に手を掛けた。
「風太、今のあんた……初めて会った頃みたいな顔してる」
顔を上げて、苦笑いを浮かべた。
「蹴り殺すか?」
「……それ、冗談のつもりか? 笑えねえな」
いつもより一段と低くなった声色は、店では殆ど聞くことがない、本来のターニャ――武四郎――の声だった。口調は静かでも、視線は刺すように冷たい。
「雨にでも当たって、ちょっと頭冷やすんだな」
無言のまま店の扉を開けた風太を、それでも見送りながら、ターニャがそう口にした。扉が閉まると、中から聞こえていた嬌声が途切れ、それに代わって雨音が耳に響く。
今年の梅雨は、いつもよりも雨が多い。
あれだけ飲んでも、本当は酔いはほんの少ししか回っていなかった。傘を差しながら、アルコールの匂いがする息を深く吐き出す。
自分がいつもより苛立っていることは、風太自身十分自覚していた。
珠恵を突き放しておきながら、まるで自分の方が傷付いたとでもいうように、いったいいつまでこんなことをしているつもりだと、己に嫌気がさす。
だが、今日はそんな風に冷静に自分を顧みることもできない。きっと。夕方から降り出したこの雨のせいだ。
ターニャには、雨に当たって頭を冷やせとそう言われたが、風太にとってそれは逆効果でしかない。雨に濡れれば濡れる程、冷静ではいられなくなる。
雨に浮かぶみどり色の傘
握り締めた白い指
無理に笑みを浮かべる唇
震える声と、瞳に浮かんだ涙――
あの日から、雨が呼び起こすのはいつでも彼女の記憶で。雨の日には、ひどく気持ちが掻き乱された。