本編《雨月》

第七章 雨と混沌7



 どうやってまともに運転をして家まで戻って来たのか、その辺りの記憶は曖昧だった。
 風太の車が戻った気配を察した面々が、母家から外に出て来る。真っ先に駆け寄ってきた喜世子が、風太が運転席から降りるのを待ち構えていた。
「風太、珠ちゃんは」
「……家には、送り届けました」
 それだけを口にして車のドアを閉めると、皆と視線さえ合わせず、部屋に続く階段へと向かう。
「ちょっと風太」
 腕を掴まれ、引き止められた。足を止めたまま俯き加減になる風太の顔を覗き込んで、喜世子は驚いたように目を見開いた。
「あんた……どうしたの」
「どうもしませんよ。疲れたんで、もういいですか」
「何もないって顔じゃないだろ、ねえ風太」
 喜世子が掴んでいる手をそっと引き剥がした。顔を上げると、心配そうに見つめる喜世子の後ろで、泣きはらした顔で佇んでいる愛華や、心配でまだ部屋に帰らなかったのだろう竜彦も、同じような表情で風太を見ている。
 皆の視線から逃れるように、足元へと視線を落としながら、ふと苦い笑みが浮かんだ。
「あんた」
「おかみさん、福原さん、もううちに呼ばないほうがいいですよ」
「何で――やっぱりあの子、何かされて」
 ハッとして再び風太の腕を握った喜世子の手に、力が入る。
「違います。それは、まあ何とか大丈夫だったんで」
「じゃあ、何で、何が」
「俺らといつまでも会ってても仕方ねえし」
「あんた……何言って」
 ゆっくりと顔を喜世子に向ける。足音が聞こえ僅かに視線を動かすと、走って帰って来たのだろう翔平が足を止めて息を整えながら、その場の奇妙な空気に戸惑ったような表情を浮かべた。
 一つ息を吐いて、乾いた唇から言葉を押し出すように、口を開いた。
「見合い、するらしいですよ、彼女。何か凄えエリートと」
「見合い……って。珠ちゃんが、そう言ったの?」
 答えないまま視線を移して、目を見開いている翔平にも、小さく笑ってみせた。
「まあ、そういうことらしいんで。うちにあんまり出入りすんのも、どうかと思いますし」
 まるで唇だけが切り離されたような自分の声を聴きながら、言葉を継げず一様に黙ってしまった喜世子達をその場に残し、風太はもう振り向かず階段を上がり部屋へと戻った。

 薄暗い部屋の中。携帯を放り投げ、電気もつけずに寝転がる。
 ――君のような下品な人間が嫌いでね
 ――とてもまともな育ちとは言えない
 ―父親が誰かもわからないロクでもない女の息子
 ――ヤクザまがいの
 ゴミを見るような目も吐き出された言葉も。全て初めて向けられた類のものではなかった。そしてそれら全てが、本当のことだ。それなのに、今更何がこんなにも堪えているのだろうか。まだ、こんな言葉に傷つく心が自分の中に残っていたのかと、薄く笑いが漏れる。
「風太さん?」
 扉をノックする音に続き、翔平の声が聞こえた。煩わしくて今は誰とも口をききたくなかった。口を開けば、胸の内にあるドロドロとした感情を全てぶつけてしまいかねない。しばらく無視していると、やがて諦めたのか向かい側のドアが閉まる音がした。
 暗い部屋の隅で、震えながら光る携帯から顔を背け、しばらく目を閉じていた。苛立ちと、そして、身体のどこかがまるで体温を奪われるように急速に冷えて行くのを感じる。立ち上がり静かになった携帯を手に取ると、着信は翔平からのものだった。
 電源を落とした携帯を放り投げて、明りも灯さず冷蔵庫からビールを取り出す。
 飲んでも飲んでも。酔うことができない夜だった。殆ど眠ることなく、夜を明かした。

 翌日風太は、母家には顔を出さず、皆が仕事に向う時間に部屋を出て、車へと乗り込んだ。何か言いたそうな喜世子には挨拶だけをして、そのまま車の中でも誰からも話し掛けられないように、背を向けて目を閉じていた。
 朝から雲行きはかなり怪しかったが、昼過ぎから降ったり止んだりを繰り返していた雨が夕方には激しい雷雨になったため、そこで作業を切り上げることになった。
 帰りの車は、意図してか二人乗りの軽トラックを任されて、翔平と二人で乗って帰ることになった。運転を翔平に任せたまま目を閉じた風太に、しばらくは黙っていた翔平がとうとうしびれを切らしたのか声を掛けて来た。
「今日、ちょっと早いっすよね」
「……」
「珠ちゃん、図書館にいますかね」
「……」
「行ってみますか」
 目を閉じたまま、口を開く。
「……やめとけ」
「やっと口聞いてくれた。風太さん、夕べ俺にあんなこと言っといて、これいったいどういうことなんすか」
 小さく息を吐き、目を開いて顔を振り向けた。翔平が、遊びや冗談で珠恵のことを言っていたわけでないのはわかっていた。それなりに気に入っていたのは本当だろう。
「夕べ、おかみさんに言ったとおりだ」
「見合い、ってやつっすか」
 激しい雨は、ワイパーを最速で動かしても前が見え辛く、翔平は食い入るように前を見つめたまま、納得していないことがわかる口調で話を続ける。
「それで、風太さんはいいんすか」
「何が」
 わかっているだろうとでも言いたげに、翔平が舌打ちをする。
「珠ちゃん、その見合い、ほんとにしたいんすかね」
「さあ、な……でも」
 東大出のエリート官僚。いうなれば国を動かしている人種だ。きっと生活も将来性も、そしてそこへ至った道筋にも、傷の一つもないような男なのだろう。真面目で優しい彼女のことだ。そんな男が相手なら、きっと誰もが羨むような、幸せな生活が送れるはずだ。
「でも?」
「……いや。……なあ、翔平」
「何っすか」
「お前、分不相応って知ってるか?」
「それ、どこの王様っすか」
 苦笑いしながら目を閉じる。
「ちょっ、風太さん、何笑ってるんっすか、まだ話終わってねえって」
「彼女と俺らとは、もともと暮らす世界が違うってことだ。俺らと関わってなけりゃ、夕べみたいな目に合うこともなかった。そうだろ」
「けどあれは、たまたま」
「翔平」
「……はい」
「多分……ちょっと、珍しいタイプだっただけだ」
「風太さん、けど」
「彼女の見合い相手は、エリート官僚だそうだ」
「……?」
「要するに、この国を動かすような凄え仕事ができる優秀な男ってことだ」
「だから、何っすか」
「幸せに、なるだろ」
「何でそんなのわかるんっすか」
「いい生活が、できる。少なくとも、食べるもんや生活に困ることはねえ」
「そんなこと」
「大事なこと、なんだよ。生きていくには。それに、誰にも後ろ指を指されたりしない」
「けど……頭いい偉い奴でも、悪いことする奴らはいますよ」
 小さく笑みを漏らす。
 翔平は、勉強はいまいちでも、少なくともまともな両親に育てられてきた。父親を小学生の時に亡くし、それから女手一つで育ててくれた母親の為に、少しでも早く一人前になるために親方の所に弟子入りしたのだ。物事に対する捉え方が、ある意味真っ直ぐで純粋だ。そんなところは、どこか珠恵に似ていた。
「お前……いい奴だな。馬鹿だけど」
「何っすかそれ、馬鹿は余計でしょ」
 クッと笑みを漏らすと、翔平がこちらを向く。
「危ねえって、ちゃんと前見とけ」
 あの抜け目なさそうな父親が選んだ男だ。きっと、エリートの中でもさらに優秀な男なのだろう。
「でも、珠ちゃんは」
「翔平。この話はもう終わりだ」
 キッパリと告げると、流石に翔平も口を噤んでしまった。
 車窓を、まだ激しい雨が打ち付けている。だが、遠くの空は明るくなってきていた。
 ここ最近は、雨の日にはたいてい図書館に通っていた。これから、何をしようか。窓の外を眺めながら目を閉じると、図書館のカウンター越しに風太を見上げた珠恵の顔が脳裏に浮かぶ。胸の内で苦笑いをして、目を開くとただぼんやりと雨の景色を眺めていた。

 寄って帰りたい店があると言った翔平に、駅前で車を下ろして貰った。昨日世話になったターニャの店に顔を出しておかなければと、ようやくそこで思い出したからだ。色々なことがありすぎて、頭がまともに働いていない。
 駅裏の、昨日珠恵を探すために向かった通りを歩き、昨日の店よりは幾分駅寄りの細い路地裏へと入っていく。夕方でも比較的早いこの時間、この辺りの店はまだ殆どが閉まっていて、昨日珠恵を背負って歩いた時とは、随分様相が違っている。
 時折開店準備をしている店も見受けられる路地を進んで行くと、ちょうど店のドアを開けて、空を見上げていた弘栄と鉢合わせた。
 風太を見てほんの微かに唇を上げた弘栄は、ママは今日かなり遅くなる予定ですと、申し訳なさそうに口にした。飲んで行きますか、と誘われたが、今日酒を口にすればきっと悪酔いするとわかっていた。
 また顔を出すと告げて、再び雨の中、傘を差して駅へ戻る道を歩いていく。通りを過ぎる頃には、もう雨は小降りになっていた。
「あれ、ねえ、風ちゃん」
 駅前で声をかけられて振り向くと、見知った顔の女が立っていた。
「ミカ」
 細身の、殆ど下着だけを隠すような長さのワンピースを着たミカが、笑みを浮かべ手招きをする。
「え、何でこんなとこいるの? 仕事は?」
「ちょっとな。今日はこの雨で上がり」
「そっか……あ、じゃ、ちょうどいいや」
「何が」
 問い掛けに答える前に、ミカが風太の腕に手を絡めて歩き出す。
「おいって」
「傘はないし、同伴の予定もなくなっちゃって、暇になったから誰か引っかけようかなって思ってたんだけど」
 ミカの勤める店は、風太の住んでいる場所から少し離れたホテル街の近くにある。
「ああ、俺は駄目だ。今、夜は学校があるからな」
「なんだかなあ、真面目んなっちゃって。最近店にも全然顔出さないし、遊んでくんないって他の子たちも、淋しがってるよ」
「よく言うな。遊んでくれる奴たくさんいるだろ」
「まあねぇ、けど、風ちゃんとは結構相性いいし。はじめっから身体だけってわかってるから、私は気楽なんだよね」
「何だ、そりゃ」
 身体を押し付けるようにして、妖艶な笑みを漏らすミカを見つめる。確かに彼女とは、何度か寝たことがある間柄だった。ミカには、他に忘れられない男がいる。互いに、相手に執着はない割り切った関係だった。
「……そうだな」
 雨が止んだことに気が付き、傘を畳みながら、ふと我に返った。こうやって、軽い関係の、後腐れのない女とたまに寝て、時々店で遊んで。そんな風にこれまでだって過ごしていたのだ。そのくらいが、自分には丁度いい。
 互いの人生に、先々まで責任を持つような重い関係は、きっと自分には向いていない。
 ――君には君にふさわしい
 確かに、珠恵の父親の言うとおりだ。珠恵のように、頬に触れるだけで顔を赤く染めるような女が、こんな男に相応しいはずがない。
「ミカ」
「なあに?」
「うち……来るか」
「え、いいの? でも、おかみさん」
「ああ、今日は親方と病院だ」
「そっか。なら……あ、でも夜から仕事だから、ほどほどにしてよね」
「がっついたガキじゃねえぞ」
 苦笑いしながら歩き出した風太に絡みつく女の、甘い香水が香る。それは、珠恵が決して纏うことのない種類の香りだった。
 濡れた足元を水たまりを避けながらミカと歩いて行くと、またポツポツと雨粒が落ちてきた。目の前にある大きな水たまりに、雨が落ちて水の輪が重なり合い、いくつもの波紋を広げていく。
「ねえ、風ちゃん、傘差してよ」
「ああ、悪い」
 足を止めて、ぼんやりとそれを見つめていた風太の腕をミカが引いた。頷いて手にしていた傘を広げると、風太が何もしなくてもミカが、身体を寄り添わせて来る。
 部屋が近づいてくると、けぶる雨の景色の中、緑色の傘が広がっているのが見えた。
「――あれ、誰かいるけど、何か知り合い?」
 思わず足を止め、小さく舌打ちをする。風太を見上げたミカの肩を、傘を少し伏せ気味にして、抱くように引き寄せた。
「え、ちょっと風ちゃん、どうしたの」
 足早になった風太に、ミカが歩調を合わせてついて来る。
 目深に落とされていた緑色の傘が僅かに持ち上がり、こちらを硬い表情で見つめた珠恵と目が合った。
「ね、風ちゃん、やっぱり知り合いなんじゃ」
 階段の下に佇む珠恵の前で、足を止めた。
「……あ……の、私」
 目を逸らした珠恵が、か細い声を漏らす。怪訝な顔で風太を見上げたミカに視線を送ると、その手に傘を持たせた。
「ミカ、先に部屋に上がっててくれ」
「あ……うん、いいけど……」
 本当にいいのか? とでも言いたげな視線を送ってくるミカに頷くと、彼女は傘を握ったまま、珠恵の横をすり抜けて階段を上がって行った。

「あの……雨が」
 傘をミカに渡したために、雨粒が直接当たっている風太を見上げて、珠恵が自分の傘を差し掛けようとした。
「いい。あんたが濡れる」
 軽く手で押し返すようにすると、強張った表情が風太を見上げた。
「今日は、仕事を少し早めに終わって……それで」
 こんな態度を取っていながら、今日珠恵が仕事に行ったと聞いて、体調には問題がなかったのだと安堵を覚える自分がいる。
「あの、昨日は父が……何か、森川さんに言ったんじゃないかって」
「いや。特になにも。それだけか? なら人、待たせてるから」
 俯いたその頬が、僅かに赤みを帯びた。
「いえ、あ……の、私」
「そういや、見合い、するんだって」
 驚いたように、珠恵の顔が風太を見上げた。
「え……あの、それは……私」
「いい話みてえだな」
「あ……」
 小さく首を横に振りながら、珠恵が目を伏せていく。
「あんたさ……」
 風太の声色が冷たいことに、もう気が付いているだろう。珠恵の口元が次第に強張りを増していく。
「そんな話があんなら、ここに来んのも、やめといた方がいいだろ」
「でも……わたしは」
「ああ、もしかして、昨日のアレか?」
「……え?」
「夕べはあんた参ってたし、いろいろうるせえこと言うから、黙らせるためにあんなことしたけど。特に深い意味なんてねえから」
「あ……」
 小さく目を見開いた珠恵が、風太の言葉に口を結ぶと、顔を赤くして俯く。
 愛華が彼女を傷つけたときと同じように、いや、きっともっと深く珠恵を傷つけたその言葉は、口にした傍から、風太の中の珠恵への気持ちまでも、汚していく言葉だった。
 傘を持つ華奢な指先に力が入るのがわかる。伏せたまつ毛が僅かに震えていた。
「――もう、ここへは、来るな」
「もりか」
「試験も終わったし、あんたと会う理由ももうないだろ」
「……それは」
「あんたにはあんたの場所がある。あんたに相応しい相手がいる」
「でも……私は」
「それは……俺みたいな男じゃない」
 珠恵の言葉を遮り強くそう口にする。二人の間に、沈黙が降りた。
「あんたには、本当に感謝してる。いろいろ迷惑かけて、悪かった。けど」
 泣きそうな瞳が風太を悲しそうに見上げた。
「ただそれだけのことだ」
 強張った目が静かに伏せられる。白くなるほど傘の柄を強く握り締めた指が、微かに震えていた。
「そう……ですね」
「彼女、待たせてるから。悪いが」
「いえ……突然来て、すみませんでした」
「いや、いろいろ……世話んなったな」
「……いえ」
「じゃあ、元気で」
「……もり、かわさんも」
 呟くようにそう絞り出した珠恵が、風太に深く頭を下げた。動かない彼女の横を擦り抜けようとしたとき、名前を呼ばれた。
「森川さん」
 足を止めて、顔だけをそちらへ向ける。
「これ、せっかく持ってきたから。皆で、食べて下さい」
「……いや」
「森川さんだけにじゃ、ありませんから。喜世子さんや、翔平くん……それに、親方さんや愛華ちゃん、竜彦さんや一寿さんにも……お礼を、伝えておいて下さい」
 手に持っていた紙袋を差し出した珠恵から、それを受け取った。
「それ、じゃあ」
「……ああ」
 静かに笑みを形作る、震える唇を見つめていた。顔を上げて、瞳に涙を溜めながら笑ってみせた珠恵の目が、風太から逸らされ、走るようにその場から立ち去って行く。
 雨の中、遠くなっていく緑色の傘を見つめながら、吐きたくなるほど苦いものが胸の中に渦巻いていた。
 いつの間にか存在していた温かくて柔らかな何かが、ごっそりと抜け落ちてしまったような気がした。胸の中が、冷たくて痛い。
 胸を押さえて微かに苦笑いを漏らす。自分には苦しむ資格すらない。彼女は、きっともっとずっと、痛かったはずだ。

 しばらくの間そうしてそこに立ち尽くしていると、扉が開く音がして、ミカが風太を見下ろしていた。重い溜息を吐いて、階段を上り、手渡されたタオルを手に取る。
「珍しいね。優しい風ちゃんが女の子にあんなに冷たくするの」
「……別に、優しくねえだろ」
 ボソリと呟きながら、部屋へと入って行く。
「優しいよ、風ちゃんは。女の子には誰にでも同じように。なのに……あんな風に冷たくするのって、逆に特別な気が」
「そんなんじゃねえ」
「ふうん……あ、ねえ、何か甘い、匂いがする」
 風太の後に続き部屋に入ってきたミカが、テーブルに置いた紙袋を上から覗き込んだ。
「いちご……」
「あとで、店に持ってけ」
「え、風ちゃん食べないの?」
 まだいちごを覗き込んでいるミカの腕を引いて壁に押し付け、唇を塞いだ。昨夜の珠恵とは違い、すぐに慣れた反応が返ってくるミカとのキスは、けれど昨日のように、風太の胸を震わせることはなかった。
「――好きじゃねえんだ」
「え?」
「いちごは」
 ふうん、と首を傾げたミカが、口元に笑みを浮かべて、女の顔で風太を見上げる。
「雨で……身体冷えてる」
 風太の濡れた髪を長い指で掻き上げたミカが、身体の位置を変えて風太の唇を塞いだ。
「温めて、あげる」
 脳裏に浮かぶ珠恵の泣きそうな笑顔を打ち消すように、細い腰を引き寄せて、絡みつく女の腕に身を任せた。


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