喜世子が珠恵に運ばせた朝食は、もう冷めてしまっていたが、夕べ部屋に戻ってから何も口にしていない風太は、すぐに全部平らげてしまった。薬を飲んでひと息つくと、思い出したように携帯へと手を伸ばす。
アドレス帳から『福原たまえ』と登録した名前を呼び出し、編集を始めた手がすぐに止まった。
――たまえ、って多分平仮名じゃねえよな
苗字は図書館のエプロンに付いた名札で見たことがあったが、他の職員に名前を確かめたとき、漢字までは尋ねなかった。取り敢えずは平仮名のままアドレスを登録し終え、それを保存する。
――にしても、えらく気を遣わせたな
夕べ彼女はこの刺青だって目にしたはずだ。だのにそれに対する恐怖心や嫌悪感よりも、生真面目そうな彼女のことだ、きっと怪我の責任を感じる気持ちの方が強いのだろう。
けれどまさかあんなことを『お願い』されるなんて――と、教えて貰うのはこちらなのに、彼女の方が必死でお願いしていた様子を思い出して可笑しくなる。
敷きっぱなしの布団の上に寝ころんだ拍子に、腕の傷がズキズキと痛む。顔を顰めたまま目を閉じると、熱があるからだろうすぐに眠気は襲ってくるのに、腕の痛みにまた意識が揺り戻される。
そのことに、微かな苛立ちと腹立たしさが込み上げる。トラブルはごめんだと思っていたのに、変な親切心を出したのがそもそもの間違いだったのだ。
***
閉館までいた図書館を後にし、そのまま飲みにでも行こうかと一旦駅に向かっていた風太は、ふと思い立って公園に戻ってみた。図書館の裏側に回り、携帯を投げ捨てた付近へと足を踏み入れてみると、その辺りは僅かに外灯の光が届く程度の薄暗さだった。
職員が追いかけて行ったから、恐らくはあいつらも回収は出来ていないだろう。放っておけばいいとは思いながらも、携帯が着地したであろう付近を少しだけ探ってみた。
街灯の灯りが僅かに届くだけの場所での探し物には時間を要し、諦めかけた時になって見つけたそれは、植え込みに引っかかっていたため壊れてはなさそうだった。
見つけたはいいがどうしたものかと考えていると、風太のいる場所からはちょうど木々の影になっている場所から、複数の声が聞こえてきた。
「なあ、俺らまで、付き合う必要あんのか」
「頼んでねぇし」
「んだと」
「いいから、早いとこ探そうぜ」
聞き覚えのある声が混じっている。どうやら、さっきの奴らが携帯を探しに戻ってきたようだ。
「なーもうほっといて、女探しに行こうぜ」
少し離れた場所で言い合っていた声が小さくなり、どこか間延びしたトーンの声が風太に近い場所から聞こえて来た。
「勝手に行けよ」
「最近溜まってんだよ」
「お前二組の女と付き合ってんだろ」
「あいつ、清純そうにみえてヤリまくってるし。俺、恥じらいのない女じゃ萌えねえの」
「そっちのが疲れねえし、楽だろが」
「自分から乗かって悦んで腰振るとか、マジ萎えんだよ。ああいうのは、恥ずかしがんのを無理やりやらせっからいいんだって」
聞きたくもない話を盗み聞きしているような状況が馬鹿馬鹿しく、溜息を吐きそうになる。
「なあ、ケントまだか」
「っせえな、お前も探せよ」
「はあっ? だいたいてめえがビビッてっからこんなことになったんだろうが」
「んだと、もっぺん言ってみろ」
小競り合いのような遣り取りに混じった名前から、やはり昼間の学生だと確信した。だがこの状況で今、風太がこれを持って現れたところで、全く歓迎されないだろうことも容易に想像がつく。音が鳴ると面倒だと、手の中にある携帯の電源を落とした。
「やめとけって。見つかったら面倒だしあんま騒ぐな。ケントもっぺん鳴らすぞ。――なあヒロム、その女いらねんだったら俺に回せよ」
「じゃ、誰か変わり連れて来いよ」
「ってかさあ、ほらさっきの図書館にオネーサンいたよな」
「どれ?」
「警備員連れて来やがった」
「俺は注意してきた方かな」
ゲラゲラと笑う声の方から、タバコの煙の臭いが漂ってきた。
「なあケント、お前の電話さっきは呼び出し音鳴ってたよな」
「あ?」
「なんか電波が届かねえか電源入ってねえっつってんぞ」
「誰かに持ってかれたんじゃねえの」
どうやら電話を探している者とそうでない者に分かれているらしく、それぞれの声が別の場所から聞こえる。
「なに、お前ああいうのがいいわけ、いや、後から入って来た方だろ普通」
「や、なんか涙いっぱい溜めて震えてんの見てたら」
「それでヤリてえってなんの」
「あーゆう大人しそうな女、嫌がんの無理矢理ヤってもっと泣かせて、で、最後は俺ので啼かせてみたいな? よくね?」
「オヤジくせー」
「エロサイト見過ぎだろそれ」
「やっべ、考えたらすっげえ興奮してきた」
「お前、マジどっかで抜けよ」
「でもさあ、俺もそれちょっとわかっかも」
「だろ?」
「なあ……まだいるんじゃね? 昼のあれにもムカついてっし、ここに引き摺り込んじゃおっか」
「おま、それゴーカンだろ」
笑い声が小さくなり、声のトーンが落ちたため彼らの話が聞こえにくくなった。始まりは下らない軽口だった話の流れが、怪しい雲行きになっていた。
携帯を探している奴らの気配が、さっきよりも近付いてきている。今更これを置いていったところで、鉢合わせる事態は避けられそうにない。
「マジ……るか?」
「……ヤッて……別に……ねえって、……未成年だし」
「動画……脅せ……いんじゃね」
――ああ、もう面倒くせえな
心の中でひとりごちた風太は、もう一度深く溜息を吐いてから、こちらへ近づいてきた足音の方へと足を踏み出した。
突然目の前に現れた風太が彼らに歓迎されなかったのは、予想通りだった。こっちは携帯を返して立ち去りたかったのだが、やはりそうはいかなかったらしい。
説教じみたことをつい口にしてしまったのも、奴らの神経を逆撫でるには十分だっただろう。かつての自分を思えば、大人に真っ当な説教をされるほど、イラつくことはないものだとはわかっていた。だが、流石に輪姦の相談は黙って聞いている訳にいかない。ましてや、どうやら彼らがその相手に選んだのが、自分の顔見知りなのだから尚更だ。
ここで揉めるつもりも、騒ぎを起こすつもりもなかった。だがそれは風太の一方的な希望であって、気が付けば仲間に煽られて引くに引けなくなったケントが、ポケットから取り出したナイフで、切りかかってくる事態に発展していた。
掴みかかってきた奴らを三人までは上手く躱せたが、力を加減していたせいもあり、ケントの振りかざすナイフの刃先を避けた所で足を滑らせてしまった。
その瞬間、腕に鋭い痛みが走り、呆然としたように血の付いたナイフを持っていたケントが、それを地面に落としながら風太の傷の辺りを見て青ざめた。
「ケントっ」
周囲の動きが一瞬止まり、誰かが声を上げる。
「お、まえ……ホンモノ、かよ」
恐らく血が滲みでる前に、裂けた服の間から風太の刺青に気が付いたのだろう。ケントが呟いたその声は、後ろのメンバーには届かなかったようだ。
「さっき言ったろ」
苦笑いしながら、風太も小声で答える。図書館でケントに告げたのは――背中に墨背負ってる人間、マジで相手にする気か――という言葉だった。半信半疑だったのだろう言葉を裏付ける刺青と、溢れ出した血を目の前にして、ケントが動揺しているのが手に取るようにわかる。
「うわっ、やっべ、マジ刺してんじゃん」
「ちょ、逃げんぞ」
「ケント、来いっ」
逃げながら彼の名を呼ぶ仲間の声が聞こえないのか、ケントは、こちらを見たまま身動きひとつしない。風太はその目を見つめ返して、行け、と顎の先をしゃくった。
少し目を見開いたケントが、後ずさり逃げていく。その後姿が見えなくなってから、今日何度目かわからない溜息を吐き出した。
切られた腕が熱い。立ち上がり、ケントが落として行ったバタフライナイフを拾い上げる。少し懐かしいその感触に感傷に浸る間もなく、痛みが激しくなってきて思わず近くの石段に座り込んだ。
「……ってえな、くそっ」
傷を確かめるために、上に羽織っていたパーカーを落として、ざっくりと刃先が入ってしまった傷口を押さえる。どうしたものか、だから面倒事は嫌なんだよ、と考えながら舌打ちしかけたとき、砂を蹴る足音のようなものが近付いてくるのに気が付いた。
まずい――と思ったが、立ち上がろうとした時にはもう、足音がすぐそこで止まっていた。
顔を上げて目に映った彼女の顔を見て、風太は複雑な気持ちになった。面倒な事態に彼女を巻き込んだことと、けれどここに来たのが見知らぬ人間でなくてよかったという思い。そしてその後で浮かんだのは、僅かな安堵だった。
一歩間違えれば、彼女はあの馬鹿な高校生に輪姦されていたかもしれない。それを思うと面倒事を引き受けたのが男の自分で、まだよかったのだろうと思えた。
***
ひと寝入りして目が覚めたのは、もう昼近い時間だった。起き上がり片手で顔を洗ってから、着替えと食べ終えた食器を手に母家へと向かった。
「おかみさん、ご馳走様でした」
台所に顔を覗かせると、昼食の支度をしていたらしい喜世子がこちらを振り返り近付いてくる。
「熱はどう、少しは下がった?」
伸びてきた手のひらが額に触れて、安心したように小さく頷いてから離される。少し分厚い母親らしいその手は、夕べ額に触れた華奢な手のひらとはまた感触が違った。
「夕べよりは随分」
「みたいだね。ご飯、食べられるなら昼の用意できてるよ」
食べ物の匂いに刺激されたのか、途端に空腹を自覚する。
「昨日から殆ど食ってないんで、腹は減ってます」
「じゃあ、そっちで待ってな」
大きめのテーブルが置かれた居間の、いつもの場所に腰を下ろしていると、目の前に食事が並べられていく。いくつかのおかずを並べ終えた喜世子も、手を合わせて食事を始めた風太の前に腰を下ろし、昼食を食べ始めた。
「久しぶりだね」
「……え?」
「あんたとこうやって二人だけでご飯食べんの」
「ああ――」
頷きながら、風太は箸を持つ手を止めた。ここで住み込みで働き始めた頃は、しょっちゅう親方から謹慎を喰らって、不貞腐れながら喜世子の賄いの手伝いをさせられていた。その頃のことを思い出して、苦笑が浮かぶ。
「おかみさん、仕事に穴あけて……迷惑かけてすいません」
風太をチラッと見遣った喜世子が、お茶を口に含み息を吐いた。
「あんたのせいじゃないんだろ」
箸で摘まんだ漬物を口にし、いい音を立てながら咀嚼した後、お茶を飲み干して食事を終えた喜世子は、黙っている風太に食べるように促しながら口を開いた。
「あの子、今朝来てた珠ちゃん」
「……たま、ちゃん?」
「だろ、違ったっけ」
「いや……まあ、違いませんけど」
昨日と今日、ほんの少し顔を合せただけの珠恵を、もう親しげに呼んでいるのがこの人らしい。
「夕べ送ってった時、その怪我の原因はあんたじゃないって事情を説明してくれてね」
「え……ああ」
「それ聞いてなきゃ説教するとこだったけど。どうせあんたは自分から話したりしないだろうし」
「いや、でも、怪我したのは俺の不注意なんで」
「ま、そりゃそうだ。けどあんた、ガキ相手に手出してないんだろ」
肘をテーブルの上について、組んだ指に顔を乗せた喜世子が、全てを見透かすような笑みを浮かべる。
「じゃなきゃ、今頃誰かが病院に運ばれてるだろうからね。また私らが菓子折り持ってお詫びに行くはめになってるはずだろ」
「いや、まあさすがにそりゃ」
昔の話を持ち出してどこか得意げに笑う喜世子に、ばつの悪さを誤魔化すような苦笑いを向ける。
「まあ、その珠ちゃんがね。何度も頭を下げて詫びるから、なんだか怒る気が失せたよ」
「はあ」
風太は再びおかずとご飯を箸で口に運びながら、まだこちらを見て笑っている喜世子を問い返すように見遣った。
「何、すか」
「いやさあ、それにしても。あの子、何だか一生懸命で可愛いねえ」
「あの子、って、福原さん?」
「そうだよ。今朝だって、よっぽど心配だったんだろうね。朝からわざわざ……あ、そうだ。あんたに見舞いを貰ってたんだった。ちょっと待ってな」
立ち上がった喜世子は台所へと戻り、冷蔵庫から取り出して洗ったイチゴを、皿に載せて戻って来る。
「風太、あんた次に会ったらちゃんとお礼言うんだよ」
まるで子どもに言い聞かせるようなその口調に、内心苦笑しつつ頷きながら、風太は、次に会ったらという喜世子のその言葉に、珠恵と交した約束を思い出した。
彼女が試験までの間の臨時で家庭教師をしてくれることになったから、ここを使わせて欲しい――そう口にすると、なぜだか嬉しそうに目を輝かせた喜世子が、そりゃいいねと何度も頷く。
「この怪我に、責任感じてるみたいで」
「責任、ねえ」
「あんたのせいじゃねえって何度も言ったんですけど」
「そうは言っても、そんな怪我されたんじゃ、当事者としてはそうもいかないだろ」
「真面目な人みてえだし、そうなんだろうな」
昼食を終え、珠恵の持ってきたイチゴを口にしながら独り言のように呟いた風太は、斜め前からの強い視線に気が付いた。
「何、ですかおかみさん」
「ここ。好きに使っていいけど、風太あんた」
「……はあ」
「あんな純情そうな子に悪さしたら、ただじゃおかないからね」
甘酸っぱいイチゴを呑み込んで、小さく溜息を吐く。
「しませんって」
「玄関の鍵は、閉めんじゃないよ」
「俺、怪我人すよ」
「怪我してなかったら、何かするつもりみたいに聞こえるね」
口に含もうとしていたお茶を、危うく噴き出しそうになりむせ返る。
「や、だからそういう意味じゃ……だいたいあの人はここに勉強を教えに来るだけで」
「当たり前だろ。わかってるよ」
ニヤッと笑った喜世子は、もうそれ以上何も言わずに、テーブルの上の食器を片づけ始めた。遊ばれたことにはやや釈然としないが「ごっそさんでした」と、親方と喜世子に嫌という程叩き込まれた挨拶や礼だけはきちんと口にする。
そのまま、風太はその場に身体を倒して少し目を閉じた。今頃親方達は、昼の休憩を終え午後からの作業に取り掛かっている頃だろうか。
何もせずにボンヤリと過ごすのは久々のことで、何だかズル休みをしているような罪悪感を覚える。昔は、それこそズル休みどころか、まともに学校へ行くことすら殆どなかったのに、おかしなものだ。
思ったよりも熱が引かない身体は、すぐに風太の意識を眠りへと誘っていく。
――何だか一生懸命で、可愛いねえ
たしかに、顔を朱く染めながらいつも必死そうに見える彼女の様子は、どこか働き者の小動物を思わせる。
今しがた喜世子と話をしていたからだろう、眠ってしまう直前、今朝部屋に突然訪ねてきた福原珠恵のことを考えていた気がする。
「ねえ風太、あんた吉永先生とこ……って。笑いながら寝てるよ、珍しい」
タオルケットを持ってきた喜世子が、そっとそれを風太に掛けて、額に冷やしたタオルを乗せる。
「さてっ、片付けて、買い物に行かなきゃね」
台所に立つ人の気配を薄っすらと感じながら、風太の意識は、深く心地よい眠りに落ちていた。