本編《雨月》

第三章 雨といちご2



 ――そいつ、一人で帰したらそのまま飲みにでも行きかねないからな。あんた、家の前まで責任持って送り届けてくれ。なに、すぐ裏手だ。

 結局、吉永医院を後にしたのはもう十時近い時間だった。病院を出る前に吉永が口にしたその言葉に従い、森川の後をついて行く。何度も「帰っていい」「送って行く」と言われたが、吉永の言葉を盾に取った珠恵が、家に帰るのを見届けると言い張ると、やがて森川は小さく溜息を吐いて諦めたように歩き始めた。
「信用ねえな」
「そんな、そういうことじゃ、ありません。ただ……心配で」
「女じゃあるまいし、家までなんて一人で帰れる。あんたの方がこんな時間にここから駅までだって一人じゃ危ねえだろ。だいたい、家、大丈夫なのか? 家族と住んでるんだろ」
「あの、遅くなるって、言ってあるので、大丈夫です」
 ほんの少しの嘘を紛れ込ませた返事に、けれど森川が怪しむ気配はなかった。それもそうだ。社会人であれば、この時間なら普通はきっと少し遅い程度のものだろう。
 さっきまで、今日起きた出来事で頭の中が一杯で、時間など忘れてしまっていた。少し遅くなる、という電話を最後に、家に連絡することなど頭に浮かばなかった。
 珠恵がこんな時間まで帰らないのは、忘年会や歓送迎会など職場での付き合いのときが殆どで、ごくたまに友人と食事に出かけることがあっても、そんな時はきちんと遅くなることや帰宅予定の時間を告げて家を出て来る。
 だからきっと、自宅から携帯に何度か連絡が入っているはずだ。けれど今電話を確認したりすれば、きっとまた森川に早く帰れと言われる。
「あの……まだ人通りもありますから。それにいざとなれば、通りでタクシーを拾います」
「いや、うちの若いのに駅まで送らせる」
「あ、あのそんなの、本当に、大丈夫ですから」
「どうせ俺が送るって言っても、駄目だって言うんだろ」
「あ、当たり前です、森川さんは、怪我人で熱だって出てるんです。ちゃんと……休まなきゃダメです。先生だって、そう」
「あんなヤブの言うこと、あんまり間に受けるなよ」
「でも……いい先生、ですよね」
「どこが。本気で麻酔せずに縫うか普通? ったく、俺は雑巾じゃねえぞ」
 思わず笑ってしまうと、不意に足を止めた森川が振り返り珠恵を見遣った。笑ったことで不快な気持ちにさせたかと慌てて口を噤む。けれど、その視線は下へと向かい、珠恵が無意識のうちに擦っていた手のひらの上で止まった。
「それ……大丈夫か」
「え?」
「手、多分凄え力入れてたし、もしかして爪で引っ掻いたりしてないか」
「あ、いえ……大丈夫、です。全然」
「見せてみろ」
「あの本当に、大丈夫です。何でも」
 慌てて手を後ろに回そうとしたが、珠恵の言葉を聞き流した森川に手首を引き上げられる。手の甲には二本の筋状の擦傷が残っていて、微かに赤く腫れていた。
「傷になってるじゃねえか」
「こんなの、大したこと」
「悪かった。消毒してもらえばよかったな。病院、戻るか」
「いえ、本当に大丈夫です。気にしないで、下さい」
「でも」
「森川さんの痛みに比べたら、こんなの……痛いうちに入りません」
 沈黙が下りて、僅かに顔を上げる。珠恵の手を取ったまま、どこか不思議そうな顔で見下ろす森川と視線がぶつかった。
「あ……の」

 その時、すぐ隣の家の玄関がガラガラと開く音がした。
「うざいっつうの、もういちいち」
「何だって、もう一度言ってみなこの馬鹿娘が」
「何度でも言ってやるよ。う、ざ、い」
 続けてそんな大声での遣り取りが聞こえた直後、年若い女の子が門から飛び出して、そのまま二人の方へと向かってくる。珠恵は、慌てて森川が掴んでいた手を引き離した。
「愛華っ、待ちな、だいたい今何時だと」
 後を追うように門から出てきた女性は、恐らくその子の母親なのだろう。
「あれっ、風太」
 人影に気付いた女の子の足が止まった。門の付近で立ち止まった女性も「風太、あんた何して――」そう口にしかけて、二人共が珠恵へと視線を定め口を噤む。
 森川が、溜息混じりにボソっと口を開いた。
「あれ。親方の娘の愛華と、その母親」
「あ……あの、さっき先生が?」
「ああそう。その人」
 頷いた森川が二人の方へ向かって歩き出すのに、慌てて後を追いかける。
「愛華、女子コーセーが出かける時間じゃねえぞ」
「風太が遊んでくれんなら、遊びに行くのやめる」
「大人んなってから言え」
「もう十分大人じゃん」
「どこが」
「てか、ね、その女誰」
 愛華と呼ばれた女の子は、真っ黒でサラサラの短い髪を手で何度も掻き上げながら、露骨に珠恵を上から下まで見下ろして、牽制するように僅かに視線を細めた。細くて長いしなやかな足を惜しげもなく晒し、お尻が見えそうな程短いデニムのショートパンツにダボッとした大きめのパーカー、足元にはブーツをはいた彼女は、ちょっと目を引くほどの美少女で、黙って見られているだけで自分の方が年上だというのに気圧されてしまう。
「ジロジロ見んな。失礼だなお前」
「だって、なんか……いつもと感じ違う」
 ――いつもと……。
 また、だ。さっき吉永も、同じことを口にしていた。気にしないようにと思っても、小さく胸が軋む。いつも、森川さんが連れている女性――
「あの……こんばんは」
「俺の知り合いの人だ。愛華、挨拶は」
「……どーも」
「なんだそれ、ちゃんとしろ挨拶くらい。そういやお前、あんま変な奴らとつるんでんじゃねえぞ」
 知り合いの人――それ以外に言いようがないとわかっているのに、森川の口からでた言葉からハッキリと感じる距離に、居心地の悪さを覚えてしまう。
「愛華、あんたはさっさと家に戻りな。それから風太、あんたその腕どうした」
「何やらかしたの?」
 綺麗にメイクを施した大きな瞳に、なぜか嬉しそうな笑みを浮かべて、風太を見上げた愛華とは違い、母親の方は眉間に皺を寄せている。
「ね、喧嘩? 相手何人? もちろん勝ちだよね」
「愛華、あんたはいいから黙ってな」
 母親に掴まれた手を振りほどいた美少女は、母親と森川の制止も聞かず、舌を出してみせてから、そのまま家とは逆の方向へと歩いて行ってしまった。
「愛華っ……ったく、言うこと全然聞かない困った子だよ。――で?」
 苦々しい表情で娘の後ろ姿を睨んでいた女性の視線が、もう一度、森川と珠恵へと向けられる。確か吉永はこの人のことを、『キヨコさん』と呼んでいた。
「おかみさん、すいません」
「すいませんって、何」
「ちょっと腕怪我して、今まで吉永先生とこに」
「怪我、ね。喧嘩したの?」
「や……そういうのとは」
 森川が首を横に振るのをしばらくの間じっと見つめていた喜世子は、それ以上原因を問い詰めたりはしなかった。
「で、先生は何だって」
「二、三日休めって」
 森川の言葉に驚いて、珠恵は思わず顔を上げた。それに気が付いた喜世子が、唇の端を持ち上げて笑う。
「本当は、何日って」
 答えない森川から、こちらへと視線を移したその目が、珠恵に答えを求めてくる。
「あ……一週間って……あの、すみません、私」
 珠恵が答えると同時に、舌打ちにも似た溜息を森川が吐くのがわかり、萎縮する。
「こら風太。あんたがすぐばれるような嘘をつくのが悪いんだろ。何その、この子を責めるような態度は」
「別に、責めてるわけじゃ」
「まあ、話はじっくり中で聞くよ。あ、あんた――」
 喜世子が珠恵に視線を移した。
「あ……あの、私、福原珠恵と申します」
 慌てて名前を名乗り、頭を下げる。
「この人は図書館の人で、俺が公園で怪我してるとこに通りかかって、面倒見てくれたんです」
「ああ、風太が通ってる図書館の」
「あ、はい……そうです」
「そりゃ、世話を掛けたね」
「いえ、あの、こちらのほうが森川さんに、助けて頂いて」
「助けた?」
 問い掛けるような眼差しが、森川と珠恵へと向けられる。
「おかみさん、もう遅いんで。先にこの人、翔平に駅まで送らせます」
 話を遮って森川がそう口にすると、喜世子も、ああ、とその言葉に頷いた。
「あ、いえ、大丈夫です。私、あの……歩いて、ちゃんと帰れます」
「そんな訳にはいかないよ。風太あんた片手でも運転ぐらい出来るだろ」
「あの、でも森川さんは熱が」
「おい」
 慌てて止めた森川の制止は聞こえないふりをした。
「今夜は、熱がもっと上がるかもしれないって、そう先生が仰っていました。あの、だから、もう」
 きっと森川は言わずにいる気がして、気が付けば必死でそう告げていた。珠恵を見つめていた喜世子の顔に笑みが浮かぶ。その目は、思い掛けないほど優しく見えた。
「わかった。風太、この子は私が送ってくから、あんたはもう休みな」
「いえ、あの……私は本当に、大丈夫」
 申し出を断ろうとする珠恵を制するように、森川が喜世子に頭を下げた。
「じゃあ、すいません。お願いできますか」
「でも」
「いいから、そうして貰ってくれ。でないと、俺が落ち着かない」
 珠恵に向けられたその言葉に、これ以上固辞すべきではないのだろうと、少し躊躇ってから頷くと、森川がホッとしたような笑みを浮かべた。
「じゃあ、車取ってくるからちょっと待ってて」
「はい。あの、すみません」

 家へと戻っていく喜世子に頭を下げる。振り向いた喜世子は、笑って頷くと門の奥に消えた。視線を戻すと、森川が空に向けて溜息交じりの息を吐き出した。
「すみません、話して、しまって」
「いや、まあ、どうせ隠し通せるとは思ってなかったけどな」
 苦笑いを浮かべた横顔を見つめる。森川に謝りながら、けれど珠恵は、吉永の言いつけを喜世子に伝えられてよかったと思っていた。
「あの、身体、辛くないですか」
「麻酔なしでザクザク縫われたとこが、刺された時より痛いくらいだ」
 腕に視線を送った森川に、しばらく躊躇してからもう一度尋ねてみた。
「森川さん、あの、本当に……警察には」
「行かねえ」
 森川の口元から笑みが消える。余計なことを聞いてしまったのだと、問い掛ける口元が硬くなる。
「ケント……って、呼ばれてた男の子、ですか?」
「ん、ああ……まあ」
「どうして、あそこに?」
「携帯探しに戻って来てたんだろ」
「いえ、あの、森川さんは……」
 珠恵を見る森川の目が、ほんの僅かに眇められる。しばらくの沈黙の後、彼が口にしたのは「ちょっと、な」という答えにならない、けれどそれ以上は聞くなという意思を言外に滲ませた返事だった。
「多分、想像つくだろうけど、俺は、警察ってのが苦手なんだ」
「だったら私が」
 警察には、珠恵が届ければいいのではないかと、口にする前に首を横に振られた。
「無理強いするつもりはないけど、できれば言わないで貰えねえか。あいつらも、これだけで――」そう言って、自分の右腕に視線を送る。
「かなりビビってたしな。それに、チクったのがあんただって知れたら、あんたが恨みを買う」
 どう考えても、警察に言うのが正しいことはわかっている。けれど、怪我を負った被害者である森川の言葉に、それ以上説得を続けることはできなかった。
「職場にも黙ってて貰えると助かる。これは、俺とあいつらの間の問題だ。ただ、もしまたあいつらが図書館で何かしでかした時は、警察でも学校へでも好きなようにすればいい」
 そのタイミングで、車庫から出てきた車のライトが森川の顔を照らし出した。薄暗い外灯の光ではよくわからなかったが、かなり熱が上がってきているのか顔色がよくない。
「森川さん、熱が、上がってませんか」
「どうだろな」
 自分自身に頓着がない様子に、咄嗟に手を伸ばして額に触れた。
「熱いです、すごく。早く、お薬飲んで休んで下さい、……っあ、の私っ」
 慌てて手を引っ込めると、熱がある本人以上に赤くなった珠恵を、どこか面白いものを見るような目で見つめた森川がフッと笑う声が聞こえた。
「まあ……あんたの手が冷たくて気持ちいいって感じるってことは、熱が上がってるんだろうな」
 車が、珠恵達のすぐ横に止まり、運転席から顔を覗かせた喜世子に森川が頷く。
「すいません、おかみさん」
「こっちに回って隣に乗りな」
「あの、お言葉に甘えてしまって、すみません。宜しくお願いします」
 顔に上った熱を誤魔化すように喜世子に頭を下げ、珠恵は助手席側へと回った。ドアに手を掛ける前に深呼吸して振り返り、すぐ後ろに立つ森川を見上げる。
「遅くまで付き合わせて、悪かったな」
「いえ」
「気をつけて帰れよ」
「はい。あの、本当に……お大事にして下さい」
 そんなありきたりなことしか言えないのが、もどかしい。
「いてくれて助かったよ」
 助けて貰ったのは、珠恵の方だ。挙げ句の果てに、それが原因で怪我まで負わせてしまった。申し訳無さにただ首を横に振って、助手席に乗り込みシートベルトを締めた。
「風太、あんたもさっさと横になるんだよ。酒なんか飲んじゃただじゃおかないからね。それから仕事は、吉永先生の許可が出るまで復帰させるつもりはないからね」
 助手席のドア越しに立つ森川に、喜世子が声を掛ける。ウンザリしたように後頭部に手をやって溜息をついた森川は、何も返事をしなかった。
「じゃ、送ってくるから」
 助手席からもう一度頭を下げる。怪我をした利き手を上げようとして痛みに顔を歪めた森川を、喜世子が笑った。苦笑いした森川が逆の手を上げるのを待たずに、車が動き始める。
 後ろを振り返ると、薄ボンヤリとした外灯に照らされて、左手をあげた森川の姿が遠ざかっていく。やがてその姿は、車が角を曲がると同時に視界から消えた。

 ごつごつとした大きな森川の左手。
 ナイフの傷と、肌に刻まれた天女の刺青。
 全てがまるで夢だったような気がするのに、森川の姿が見えなくなった途端、胸の奥に感じた痛みが、全てが現実だったのだとそう珠恵に教えていた。


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