本編《雨月》

第二章 雨とバタフライ4



 出先から戻って来た館長への報告を済ませ、図書館を出る頃にはもう、八時を少し回る時刻になっていた。
 今後も起こりうる同様の事態に備え、再発防止対策とマニュアルの徹底を図るために、早々に会議が開かれることとなった。珠恵にも、今回のことを踏まえ、どのような対処が必要かを考えておいて欲しい、と館長からそう指示がなされた。
 帰宅する職員のほぼ最後のメンバーと共に通用口を出たところで、弟の昌也に頼まれていた文献をロッカーに入れたままにしてきたことに気が付く。躊躇ったが、皆には先に帰って貰い、足早にロッカールームへと戻った。
 人気のないロッカールームで一人、鍵を開け、中の文献を取り出し鞄に入れようとして、内ポケットに入れた携帯に視線が止まる。

 珠恵がカウンター業務を終える時間には、まだ図書館に森川は残っていた。今日は来館時間が遅かったため、恐らくは閉館までいて帰ったのだろう。
 終業後にロッカーから鞄を取り出した際、目に留まった携帯に着信履歴があることに気が付き、胸が小さく跳ねた。きっと違うと頭の中で思いながら、そっと電話を開いてみると、やはりそれは自宅からだった。
 着信はその一件。それなのに、仕事でいつもより遅くなると自宅に連絡を入れてから、履歴を確認して他にも着信がないかをつい確かめてしまう。
 きっと連絡など来ない――そう言い聞かせながら、それでも鞄の一番身体に近い場所に電話をすべり込ませる自分が、とても滑稽に思えた。
 ロッカーに再び鍵をかけ、事務所内にまだ残っていた館長らに再び挨拶をしてから、通用口の外に出る。
 冬の終わりのこの時期、さすがに温かな季節に比べると長居をする人は少ない。それでも今の時間帯はまだ、公園内はジョギングをする人や犬を散歩させる人、ベンチに腰掛けるカップルや、若い女の子達の集団もいて、一人で歩くことに不安を感じることはない。
 ただ通用口がある図書館の裏手は、街灯はあるとはいえ、やはり閉館後は人通りも少なかった。
 温かな館内から外に出ると、空気の冷たさに、吐く息がまだ少し白い。昼間は、天気がいいと少しずつ春めいた温もりを感じるようになっていたが、夜は、冬の気配が名残というにはまだ色濃く残っている。
 ハーフコートの襟を寄せボタンを掛けると、珠恵はオレンジ色の常夜灯が灯るフロアがガラス越しに浮かびあがる図書館の建物を、裏手から少し足を早めて横切ろうとした。
 
 その時、奥の小道から騒がしい声と、慌てたような足音が複数聞こえてきた。ギクリとして足が竦み立ち止まる。
「やべえって」
「ちょっ……いいのかよ」
「知るかっ」
「けど、あいつ……で色々と」
「じゃ、どうすんだよ」
「俺は関係ねえからな」
「黙れ、とにかく急げ」
 囁くような不安混じりの声や、苛立ち紛れの言葉が聞こえたかと思うと、そこから飛び出して来た人影が、逃げるように公園の出口へと向かい走って行く。それは、今日図書館で騒ぎを起こしていた高校生達だった。
 ギョッとしたように振り向いた一人が、建物の横手に立つ珠恵に気が付き、微かに目を見開く。それは、ケントと呼ばれていた森川に携帯を投げ捨てられた生徒だった。
 大きく舌を打ち珠恵の方へ向かおうとするケントを、他の生徒が引き留める。
「バカ、お前、なにやってんだ」
「知らねえぞ、置いてっからな」
 走り出すメンバーに腕を引かれて踵を返したケントは、最後に一瞥だけを残し、走り去って行った。
 その場に立ち尽くしたまま、全身が動揺で震える。振り向いたケントの服と右腕には、明らかに血と思われる赤いものが付着していた。
 彼らが出てきた小道の奥には、『女神の鐘』と名付けられた鐘が吊り下がる、小さな白い石造りの鐘楼が設置されている。
 カップルで鳴らせば幸せになれる――との有りがちな謳い文句を売りにしていたが、当初の思惑は外れ、巷ではその鐘をついたカップルは別れるとの噂が、広まっているらしい。古びた感も相まって、最近ではあまり訪れる者が居ない、園内の死角になっている場所だった。

 森川がケントの携帯を投げ捨てたのは、ちょうどその鐘楼と接する植え込みの辺りだったと気が付いて、珠恵の脳裏に嫌な予感が過る。
 彼らは、いったい何から逃げようとしていたのだろうか。もしかして奥に誰か――いるのではないか、そう思うと、足が自然とそこへ向かっていた。
 さっきから、心臓は早鐘を打つように鼓動を刻んでいる。緊張で強張る指で、無意識のうちに鞄の肩紐を握り締めていた。
 携帯を取り出してすぐに鳴らせるようにしながら、恐怖で震える足を踏みしめるように、少しずつ奥へと歩を進める。小道を抜けた辺りで、視界が広くなり鐘楼が僅かに目に入った。
 足を止めてそっと覗きこんで、心臓が何かに強く掴まれた気がした。
 鐘楼の石段に座り込む人影を視界に捕えた途端、珠恵は駆け出していた。
 そこに腰かけていた人影は、足音に顔を上げると、驚いたように見開いた目を次の瞬間には顰めていた。

「森川さんっ」
「あんた、何で――」
「何が、あったんですか、いったい何……っ」
 そこまで口にした言葉を呑み込み、口元を手で覆う。
 腰のあたりにフリースのパーカーを脱ぎ落とした森川が、シャツの上から右の上腕部を押さえている。そこから、指の間を伝って地面に血が滴り落ちていた。
「血、が……」
「ああ、まあ、見た目ほどひどい傷じゃない」
 咄嗟に森川の前にしゃがみ込んで、傷に手を伸ばそうとした。
「いい、大丈夫だ。大したことない」
「大したことない、って、だ、だってこんなに血が」
「すぐ止まる」
 傷を負っているようにはとても思えない程、普段と変わらぬ落ち着いた森川の表情に、ほんの少し冷静さを取り戻す。急いで鞄からハンカチを取り出し、それを広げて細く折り畳もうとした。
「おい、汚れる」
 緊張と寒さのため、上手く動かない指先に息を吹きかけ力を入れると、森川の制止を聞かずに、ハンカチを脇の下にくぐらせて、シャツの上から強く腕を縛りつけた。
「痛く、ありませんか」
「いや、綺麗なハンカチなのに悪いな」
「いえ、そんなこと……」
 首を横に振る。傷を縛った時に流れ出た血で、そこを押さえている森川の手の平が、更に赤く染まった。
「悪いけど、鞄の中にタオルが入ってるから、取って来て貰えるか」
 森川がいつも背負っているリュックが、少し離れた場所に放り出されていた。そこに走り寄り鞄を手に戻る。
「開けますね」と、返事を待たずに中からタオルを取り出した。
「っ……これが邪魔だな」
 僅かに舌打ちをしてそう呟いた森川が、傷を負った時に切り裂かれたのであろう位置から、シャツの袖を左手だけで引き千切ってしまった。
 タオルを手にもう一度森川の前にかがみ込もうとして、シャツが千切られ剥き出しになった右腕に視線を移した途端、珠恵の足が止まった。
 小さく呑み込んだ息が止まる。
 目に映るその場所に、本来はあり得ない物を捉えて、頭の中が一瞬真っ白になった。

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