その週末、返却期限が過ぎていたと、問題集を夕方になって返しに来た森川に対応したのは、カウンターに入っていた珠恵だった。
顔を合わせるのは、嘘をついてしまったあの日以来だった。自分の中にある気まずさのせいでぎこちなくなる珠恵とは違い、森川の態度は、当然いつもと変わらない。
「返すの遅れて悪かったな」
「いえ。あの、結構遅れる方、多いですから」
首を横に振りながら、今度会ったら、ちゃんと言おうと何度も胸の内で繰り返していた言葉を、もう一度頭の中で復唱する。
「じゃ」
「あっ、あのっ」
立ち去ろうとした森川を引き止めた声が思いがけず大きくて、自分でも驚く。幸い周囲には誰も居なくて、少し離れた席に腰かけていた男性が、チラッとこちらを向いたくらいだった。
すみません――と口籠りながら下げた頭を上げると、足を止めた森川が自分の顔を指さしている。小さく頷くと、彼はもう一度目の前に戻って来た。
「なに?」
「あ……すみません、大声で」
「いや、別にそんなこともないけど」
「あの、この間、聞きたいって言ってた問題って」
「あ、あれか。前に教えて貰った解き方を使えば解けることが分かったよ。何でもすぐに聞こうとするもんじゃねえよな」
「そう……ですか。ですよね、今更」
「もしかして、気にして貰ってたのか」
「いえ、あ、あの、少しくらいなら時間だって取れたのに、あの時は、すみませんでした」
「いや、却って悪かったな。こっちが図々しく聞いてるだけなんだから、気にすること――」
「他にはありませんか」
躊躇いを振り切るように一息で口にしてから。口を開いていた森川が、まだ話をしている途中だったと気が付いた。
「えっ、と、他って……」
「他にもわからないところとか――あ、いえ、あの、何でもありません」
少し戸惑ったような森川の表情と、自分自身が口にした言葉にいっぱいいっぱいになって、差し出がましいことを言ったのだと、慌てて首を小さく横に振った。
「ああ、まあ、じゃあ図々しいついでにやっぱ、教えて貰っていいか」
顔を上げると、森川がリュックからプリントを覗かせた。
「もうじき試験だから、結構問題出されてんだ」
そう、口の端を上げて笑う。
「あっ、はい」
勢い込んで返事をしながら、珠恵はこの間からずっと胸の奥で燻っていたものが、少しだけ軽くなるのを感じていた。
「あ、でも今日お時間」
「俺はいいけど、あんた――ってか、福原さんって呼ばなきゃな」
苦笑いした森川が、珠恵の名字を呼んだそのことだけで、また鼓動が跳ねた。
「あ、いえ、そんなの……別に気にしてません」
「や、でも。教えて貰ってんのにあんたじゃあな。で、福原さんの都合は」
「今日はあの、早番なので、だから、大丈夫です。じゃあ、終わったら席に伺います」
「悪いな」
「いえ」
「借りはまた、何かで返すから」
「へっ、あっ、あの、そんなのいいです、ほんと……に、大したことは、してませんから」
カウンターに人が寄って来る気配に視線を後ろに向けると、それに気が付いた森川は、じゃあ、と小さく頭を下げて、空席を探しに書架の奥へと姿を消した。
気持ちが少し浮き上がり、自然と口元に笑みが浮かぶ。それをそのままカウンターに本を差し出した高校生くらいの女の子に向けてしまった。
「こんにちは、貸出ですか」
「はい」
本とカードを手に取りバーコードを読み込んで、返却日の記載された用紙を挟む。その時、図書館の入口がざわついたと思うと、やけに騒がしい集団が入って来た。
「げっ最悪。何で香取達が」
目の前の女の子は、その集団から目を逸らしながら、本を珠恵から奪うように受け取ると、鞄にも入れず本棚の方へと逃げ込んでしまった。
「おおーっ、あったけー、ここ」
ガムでも噛んでいるのか、口をくちゃくちゃさせふざけ合いながら――中の一人は携帯を耳に当て話しながら、入ってきたのは、五、六人の男子高校生の集団だった。
フロアに、嫌な緊張が走る。今日に限って、役所との会議のため館長は留守にしていて、他の男性職員も休暇やイベントのために大半が留守にしている。各フロアにも最低限の人数しかおらず、今この階にいるのは、珠恵と真那だけだった。
マナーを守らない利用者がいると、いつも真っ先に注意してくれる木内も、少なくともあと三十分は戻ってこない。
周囲の利用者も、顔を向けてチラリとその姿を目にすると、苦虫を噛み潰したような表情を伏せたり、目を合わさないように棚の並びに向かったりする。
その集団は、きょろきょろとフロアを見渡してから、窓際の席へと向かった。周囲の利用者がそそくさと立ち去った後の、空いた席を占領し、周りにお構いなしに大声で話したり笑い声を上げ、ペットボトルやスナック菓子を机の上に広げ始める。
「ちょっと、あいつらどうにかしてくれませんか」
カウンターに立ち尽くしていた珠恵の耳に、苛立った人の声が届く。
「はい……申し訳ありません」
父親ほどの年頃の男性が、恐らく席について読んでいたのであろう書籍を手に、カウンターの前から珠恵に視線を送ってくる。そのタイミングで、書庫から戻ってきた真那が、珠恵の服の袖を引いた。
「私、ちょっと言ってきます」
流石にいつもとは違う強張った顔でそう口にした真那を、慌てて引き留めた。
「待って、真那ちゃん」
いくら真那が物怖じしない性格だとは言え、危険さえ伴うことを後輩の彼女にさせる訳にはいかない。
「私が言って来るから、真那ちゃんは誰か呼んで来て」
「でも……福原さん、大丈夫ですか……じゃあ二人で」
さっきから、どうにかしろと訴えかける視線が、フロアのあちこちから向けられているのに気が付いていた。真那の申し出に首を横に振る。
「いいから、真那ちゃんは誰か人を」
余裕があるように笑ってみせたつもりだが、「でも……」と眉根を寄せる真那の様子から、きっと上手く笑えていないのだろう。
それでも――
「お願い、ね」と頷いて、珠恵は急ぎカウンターを後にした。
緊張に身体が強張り、上手く息が出来ない。けれど職員である以上、対処しなければならない責任があると自分に言い聞かせながら、注目を集めている集団の元へと向かった。
「――ああっ? だから、お前それ違うっつってんだろが、馬鹿じゃねえの」
「ヒロム、そっちの袋取って」
「これ、ゲロマズなやつじゃね?」
「それ選んだのお前だろ、責任もって食えよ」
「そうそう、それだよ、それ。お前早くそれ返せよ。は? っざけんなバカ」
持ってきた菓子の袋を投げ合いふざけている者と、椅子を揺らしながら携帯で話している者。珠恵が近付いたところで、誰一人態度を改める様子などもちろん微塵もみせない。それどころか、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら、顔を見合わせ笑っている。
「――あの」
震えた小さな声しか出なくて、唇を噛みしめる。
「あのっ……ここは、図書館です。だ、だから他の利用者の迷惑になるような行動は、慎んで下さい」
息を深く吸い込み、手を握り締めながら声を絞り出した。
「――でさぁ、は? 何か聞こえた? 気のせいだっつうのバーカ。だから」
珠恵の言葉に、ほんの一瞬怪訝な顔をこちらに向けた携帯で話している男子生徒が、何事もなかったかのように通話に戻る。それを合図に他のメンバーも再びふざけ始めた。
「あそこの女子、やばくね」
「おおーっあれって、白鳳の制服じゃん」
携帯を耳に当てている男の子の腕に手を伸ばすと、軽く振り払われる。
「け、携帯での通話は、この中では禁止されています。それに飲食も」
「カナタ、お前今何か言ったか」
「言ってねえよお」
「ゲンチョーってやつじゃね」
「いいからヒロム、お前あの子連れてこいよここに」
「白鳳?」
「そうそう、ヤローばっかじゃつまんねえし」
茶色というより、金色に近い髪を左側だけ長く伸ばしたヒロムと呼ばれた子が、立ち上がり視線を送った先には、確かに白鳳女子学院の制服を着た生徒二人がいた。不穏な気配に気が付いたのか慌てて荷物をまとめ始めている。
「早くしないと逃げられっぞ」
足を踏み出そうとした金髪の高校生の目の前に、珠恵は咄嗟に立ち塞がった。利用者に何かあったらと思うと、自然と体が動いていた。
「なんか……邪魔なんですけど」
頭一つ以上は高い場所から珠恵を見下ろす瞳は、カラーコンタクトを入れているのだろう、グレー掛かっていて、どこか爬虫類を思わせる。眉や唇、耳朶に沿って並ぶ数々のピアス、股上が膝のあたりに来るほど、ズリ下げられたパンツと、ベルト穴からぶら下がるチェーン。その目に見下ろされるだけで、身体が委縮するのがわかる。
「こ……こまります」
「なにが? ってか、あんた誰」
背を向けて通話を続けていた男の子が、背を反らして突き刺すような視線をこちらへと向けてくる。
「出てっ……っ下さい」
「はあっ?」
「静かに、できないなら、外に、出て行って下さい」
「あのさあ、ここって誰でも利用できるみんなの図書館じゃねえの」
「ルールを、ま、守ってご利用頂く」
「お姉さん。僕たちここにお勉強しに来てるんでちゅ」
「ちゅ、だって、お前キモッ」
げらげら笑う声と、腰を屈めて顔を近付けてきた蛇のような目に射竦められて、唇が震え目の前が涙で滲む。それでも珠恵は、目を逸らしたら駄目だと必死で視線を留めていた。
「あれ、もしかして泣きそうになっちゃってる? ふうん、近くでよく見るとちょっと可愛いねお姉さん」
観察するように、目の前でグレーの瞳が左右に動くのを、身体を強張らせたまま見つめ返していた。
その時――
「ってめえ、何すんだよっ」
突然大きな声が聞こえて、椅子が倒れる音がフロアに鳴り響いた。