本編《雨月》

第一章 雨と図書館4



 翌日から、珠恵は職場で身につけるエプロンのポケットに、ずっとあるメモを忍ばせていた。
 初日は、それを手渡す状況を考えては緊張し、雨の日でもないのに、誰かが入口に現われるたびにそちらを意識してしまい、一向に落ち着かなかった。
 ――あの人だから、じゃなくて、きっと誰にでも同じことをする筈だ。
 そう思うのに、緊張は一向に薄れることなく、その日の仕事を終える頃にはいつもの倍疲れてしまっていた。
 結局、しばらく好天続きだったことや、久々に雨が降った日に限って休みと重なったために、あの日初めてまともに会話を交わして以来、しばらくの間、森川と顔を合わせる機会は訪れなかった。
 タイミングを逸してしまったメモは、今更渡すのも間が抜けている気がするのに捨てることもできず、エプロンを洗濯した後も、別のポケットに移し替えて持ち歩いていた。

 もう、それを用意した時の緊張感は薄れ、日常と変わらない平穏な日々を過ごし始めた頃。
 遅番のため、十時半からの勤務だったその日、新しく出版される児童書のサンプルを出版社から受け取る業務を終えた珠恵は、昼休みに入る板野と入れ替わりにカウンターに入った。
 席についてすぐに、真正面の、顔を上げれば目に入る机を利用している人に目が留まる。
 午後からは激しい雨が、そして夜には雪に変わるかもしれないという天気予報が出ていたが、朝の間はまだ少し雲間に青空が覗いていた。
 もしかしたら、午後遅い時間にやってくるかもしれない――そんな予感はしていた。
 けれど、予想よりも早い午前中のうちから姿を見せた森川が、いつもの場所ではなく、まともに珠恵の視界に入る席にいることに落ち着かなさを覚える。最近は、顔を合せないことに慣れて平穏だった気持ちが、騒ついてしまう。
 何も特別なことをする訳じゃない。でも、もしかしたら凄く余計なお世話かもしれない。ポケットの中のメモの存在を久しぶりに意識しながら、迷いを吹っ切ることもできず、無意識のうちにそれを握り締めていた。
「すいません、これ返却で、こっちは借ります」
 利用者が目の前に積み上げた本に、我に返る。
「はい。貸し出しと返却ですね」
 重ねた本のバーコードを読み込みながら、何気なく上げた視線の先に、机から顔を上げた森川がいた。

 目が合ったと思った瞬間、少しだけ笑みを浮かべた彼は、机に伏せていた本の表紙をこちらに向け頭を小さく下げた。それは、この間珠恵が薦めた問題集だった。
 たったそれだけのことで。また鼓動がトクンと跳ねる。
 ただの挨拶にしか過ぎないのに、もう顔を伏せてしまった森川に視線を送ったまま、結局会釈の一つも返すタイミングを逸してしまった。
「あのぉ……」
「あ、申し訳ありません」
 怪訝そうな声を掛けられ、慌てて止まっていた手を動かした。まだ、胸がドキドキとしている。
 珠恵の昼休憩は一時間以上先だった。それまではカウンターから動くことができず、そうしている間に、森川が立ち去るかもしれない。そう思うと気が焦り、いつもはしないような初歩的なミスをしてしまった。
 結局、昼休憩を10分程潰してミスの処理を行い、顔を上げた時には、さっきまでそこに居た森川の姿は見えなくなっていた。
 バカみたいに一人で焦っていたことが可笑しくなって、身体から少し力が抜ける。けれど、もう一度森川が使っていた机を見遣ると、ノートや筆記用具がまだ置かれていることに気が付いた。どうやら、席を外しているだけのようだ。
 カウンター業務に就いている他の職員に休憩に入ると声を掛け、エプロンを外しながら、ポケットからくたびれてしまったメモを取り出した。
 しばらく躊躇ってから、新しいメモに書き写し、少しの言葉を書き添える。それは、珠恵が自分の勉強や、そして短大生の頃に引き受けていた家庭教師の教材として使用した、比較的わかりやすかった参考書や問題集をピックアップしたメモだった。
 面と向かって渡して、目の前で引かれたりするより、席を外している間に黙って置いておけばいい。そう気が付いて誰もいない机に近付いてみると、ノートの上に広げられていたのは国語のプリントだった。きっとヨーゼフこと遠藤先生が作ったものだろう。
 周囲を見渡し森川の姿が見当たらないことを確認すると、素早くノートとプリントの間にメモを忍ばせてから、珠恵は昼食のために足早にロッカールームへと向かった。

 その日の昼食は、何を口にしても殆ど味がしなかった。同じ時間に休憩を取っている職員から話しかけられてもどこか上の空で。何度も、メモを取りに戻った方がいいのではないかとそればかりを考えていた。
 昼休みを終えカウンターに戻ってみると、森川が使っていた席にはもう別の男性が座っていて、どこか気が抜けたような気持ちになる。
「戻りました」
 隣の席に声を掛け、離席中の札をカウンターから下ろして、午前中に遣り残していた作業に取り掛かる。そうして、あのメモに気付いた時の森川の反応を直接見なくてよかったのだと、自分に言い聞かせるように思っていた。
 パソコンを操作するために身体を横に向けている所へ、カウンターに立つ人の気配を感じて椅子を回す。目の前に差し出された本を目にして、珠恵は弾かれたように顔を上げた。
「あ……」
「どうも。これ、あんただよな」
 重そうなリュックを軽く背負った森川が、珠恵の書いたメモをポケットから抜き出す。差し出されている本は、そのメモに書き記した国語の参考書と問題集だった。
「あの……はい、余計なお世話だとも思ったんですが」
「いや、こないだのも、かなりわかりやすかった。だからこれも使ってみようかと思って」
 笑みを浮かべた森川を見つめる顔が熱くなる。それが恥ずかしくて、本を握る大きな手元に視線を落とした。
「はい。……では、貸し出しですね」
 固い受け答えしかできず、彼の手を離れカウンターに置かれた本と、その上に置かれた図書カードを手に取り、貸出の記録を付ける。鼓動がトクトクと耳元で音を立て、指先が微かに震えた。
「あ、そういやヨーゼフ」
 ふと思い出したかのように声を上げた森川に、手を止めてもう一度顔を上げた。
「覚えてるって。あんたのこと」
「え」
「あんた、フクハラタマエさん、だよな」
「あ、え?」
 彼が自分の名前を知っていることに戸惑う。それが顔に出ていたのだろう、「ああ、いや――」と、森川が言葉を続けた。
「ヨーゼフに聞いてみようと思って、次に会った時に名前聞くつもりだったけど、最近会わなかっただろ。だからここに居た人に教えて貰って……って、あ、まずかったか?」
 問いを返され、慌てて首を横に振った。
「あ、いえ、そんな」
「なかなかこんな偶然もないだろって思って、聞いてみた」
 本当にその偶然を楽しんでいることがわかる森川の口調に、戸惑いが薄れていく。
「あんた、覚えてないだろうって言ってたけど、俺の勝ちだ。覚えてるって、すぐ返ってきたよ。あんたが図書館で働いてるって言ったら、本が凄く好きな真面目な生徒でしたよって。まあ、それはいいんだけどな。君も本でも読みなさいとか言われて参った」
 嬉しさと、そして苦笑いする森川の様子の可笑しさに、自然と笑みが零れていた。
「本当、ですか」
「ああ」
「嬉しい……です。覚えてて下さって」
 担任でもない遠藤が、たった一年受け持っただけのクラスの、その中でもその他大勢に埋もれ目立つことのなかった自分を覚えていてくれたことに、胸の中に仄かな温もりが広がる。
「――よかったな」
 まるで珠恵の胸の内を読んだかのような言葉と共に、森川の口元に笑みが浮かぶ。
 片頬を小さく窪ませ笑う森川の顔を見つめながら。恥ずかしくて目を逸らしたいのに、心の奥の方には、その顔をずっと見ていたいと思う自分が確かにいた。
 その言葉が嬉しくて胸が温かいのに、何故だか少しだけ泣きたくなった。

 多分これが――
 胸の奥で、小さな種が芽吹いた瞬間だった。


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