もう珠恵にとっても、日常に溶け込んだその駅に戻ってくる頃には、雨は小降りになっていた。
――折り畳みでいいんじゃねえか?
そんな風に言われたけれど、これでいいのだと雨に備えて持ってきていた緑色の傘を開いて、風太の持つ紺色の折り畳み傘と並び、日が暮れた街並みを歩く。
学校はもう試験も終わり実質休みに入っていたため、今日は、本当に一日ずっと、風太とゆっくり過ごしていられる。
夕食を食べに行く前に、少し寄りたい所があると風太に言われて、駅からいつも家に帰るのとは逆の方角へと向かっていた。そこは珠恵も初めて足を向けた地域で、少し細くなった路地に、古い家と新しい家とが混在している。珠恵達が住んでいる辺りと、そうは変わらない家並みが広がっていた。
しばらくすると、風太が、その中の一軒の家の前で立ち止まった。門中に手入れの行き届いた小さな庭があるその家は、周囲と比べても比較的大きな木造の住宅だった。もう、夕餉が始まっているのだろう、柔らかな明かりが灯っている。
この家を訪ねてきたのだろうか。
「――ここな」
疑問に応えるように耳に届いた声に、顔を向ける。風太は、まっすぐにその家を見つめていた。
「……はい」
「親方が、初めて任されて建てた家だ」
その言葉に、少し驚きながら暮れた街並みに浮かぶその家を見つめる。そう聞いたからだろうか。そこが、親方と同じように、実直で温かみを感じさせる家に思えてくる。
「そん時はまだ生まれたばっかりだったこの家の子どもが、結婚して、もうすぐ孫が生まれるそうだ」
「そう、ですか」
親方の建てた家が、この家族の生活をずっと支えてきたのだと思うと、この家で暮らす見知らぬ人達が、今、幸せであればいいと願ってしまう。
珠恵と並んでその家を見ていた風太の視線が、こちらを向くのが分かった。
「俺も、ここが初めて入った現場だ」
「え?」
「痛んだ場所の補修でな」
納得して、小さく頷く。今の翔平よりも、もっと若かった頃の風太がここにいたことを想像していると、隣でクッっと笑う声がした。
「入ったっつっても、何もしてねえけど。まあ、あのころは働く気もやる気も何もねえ今よりもっとバカなガキだったからな。庭の隅でタバコ吸ってサボってっとこカズさんに見つかって、すっげえ怒鳴られて、キレて出てった」
「…………」
「ちょうど、その辺りだったな」
今いる場所から見える、少しだけ奥まった左側の庭の辺りを指さす。
「呆れたか」
「え? あの……」
尋ねながらこちらを見た風太に、珠恵はどう答えればいいのかわからずに、けれど少しだけその情景を想像すると可笑しくなって、顔を見合わせて二人して笑った。
寒いはずなのに、この家に灯る明かりのように、仄かな温かさに包まれている気がした。
「風太さん」
もう一度、その家を見上げて、静かに口を開く。
「ん?」
「いつか……。いつか私も。風太さんが建てた家に、住んでみたいです」
「そりゃ……」
苦笑いを浮かべた風太の横顔を、じっと見つめた。
「何年かかるか、わかんねえ話だな」
「……はい」
「出来上がったころには、お前も俺も、じいさんばあさんになってるかもしんねえぞ」
「構いません」
「じゃ、でっかい家にするか」
微笑みながら、珠恵は首を横に振った。
「小さくて、いいです」
「何だ、でっかいのは無理って思ってんのか」
「ち、違います。ただ……風太さんや……風太さんが」
まだ見ぬ家族がいれば――。浮かんだその情景は、言葉にせずに飲み込んだ。
「そこにいるって、ちゃんと感じられるくらいの大きさがいいなって……そう」
急に、これでは何だかまるでプロポーズをしているみたいだと気恥ずかしくなってきて、珠恵の声が小さくなる。
それでも。風太に家族を作ってあげたいと。いつか風太と本当の家族になれたら、と。いつの頃からか珠恵は自然とそんな風に思っていた。
少しだけ手を伸ばして、隣に立つ風太の手を握る。繋いだ左の手は、すぐにその温かさに馴染んでいく。
「そうだな」
静かな声色で返ってきた返事と共に、絡められた風太の指先に力が込められて。胸の奥まで、切なさや愛しさが入り混じったような感情が広がった。
「なあ――」
「はい」
「コタツは、持ってくからな」
「コタツ、ですか?」
冬が本格的になる少し前、風太は、急に思い立ったようにコタツを買って来て、部屋に置いていた。しばらくじっと前を見つめていた風太が口にした言葉に、余程好きなのかと、そんな疑問が顔に出ていたのだろう。
「何つうか……家族って、感じがしねえか」
珠恵の視線から目を逸らすように、少し俯き加減になった風太が、ポツリと口にした。
「一緒に入って、ミカンとか食って」
「……はい」
買ってきた炬燵に、しきりに早く入ってみろと珠恵を急かしていた風太を思い出していた。二人で暖を取りながら、どこか満足げに笑っていたその時の風太の顔も。
左にある繋がれた手を、珠恵は力を入れて握り返した。
脳裏に思い描いたその景色の中に、誰かがまた増えていく、そんな未来を。同じ未来の情景を、風太と一緒に見たいと思うと、鼻の奥からツンとした痛みが込み上げてくる。
滲んだ視界の中に、頬に小さな窪みを作りながら、少し呆れたように笑う風太が見えた。
「泣くようなこと言ったか」
「違っ……何でも」
首を横に振ろうとした珠恵の横で、浮かんでいた笑みを消した風太の紺色の折り畳み傘が、地面に転がる。
緑色の傘の柄を掴んだ風太の手が、二人を覆うようにそれを傾けた。
傘に隠れて、雨の代わりみたいに、優しいキスが降ってくる。
目を閉じて受け止めた視界の中には、図書館の窓から見上げた雨の景色が、映っていた。
――今日は、森川さんはやって来るだろうか
あの窓から、空を見上げる癖は、最近ようやくなくなった。
ゆっくりと唇が離れていくと、落とした傘を拾い上げた風太が、それを無造作に畳む。
「腹、減ったな」
「……はい」
「夕飯、食いに行くか」
「はい」
「にしても、ほんとにあんな店でいいのか」
「あのお店の焼き鳥、好きです。だから」
もっといいもん食わせてやるのに。そう言ってほんの少し不満そうな顔をする風太に笑いながら。水たまりを避けて、店へと向かい駅への道を引き返す。
雨はもう、ほとんど止んでいたけれど
風太と二人、一本の傘の下に寄り添いながら。
《雨の日と月曜日 完》