梅雨が明けると、真夏らしい晴天の暑い毎日が続いていたが、天気予報はここ二日程、台風が近付いている影響で強い雨が降るとの予報を知らせていた。
風太達の通う学校が夏休みに入った初日、予報通り、珠恵が朝家を出る頃にはまだ小粒だった雨は、昼過ぎには本格的なものになり、ここのところずっと青空ばかりだったガラス越しの空も、重い鉛色の雲に覆われていた。
それでも、多くの学校も同様に夏休み初日を迎えるその日、図書館は子ども達の出入りも多く、日ごろの平日とはやはり様子が違っていて、日中はどこか浮かれたような明るさに満ちていた。
訪問者があったのは、陽が傾き、閉館まであと十五分を切る頃、子どもの姿も疎になり普段と変わらぬ空気を取り戻した時間のことだった。
その日遅番だった珠恵は、貸出や返却業務の合間におこなっていた予約図書のチェックや書籍取寄せの手配を終え、そろそろ閉館に向けてカウンター周りの片付けに取り掛かろうと、キーボードに触れていた手を止めた。
カウンター前に立った来館者へと顔を向けた珠恵の視界に、きっちりと整ったスーツ姿の男性が映る。途端に、心臓が強く脈を打った。
頭の中が真っ白になったまま、瞬きもせずその人を見つめる。
「……お父、さん」
隣の席で業務に就いていた板野が、チラッと伺うような視線を向けたのがわかる。
「仕事は何時に終わる」
「え……あっ、あの、あと三十分位で」
「なら、しばらくここで待たせて貰う」
「あのっ、お父さん」
珠恵の返事を待たず、踵を返し空いている席に向かおうとする父をどうにか引き留めた。
「あ……あの、ここはもう、あと十分くらいで閉館で、だからあの……」
不意打ちにまだ気持が整わず、焦って言葉が出ない珠恵を見つめながら、父の口元から静かな溜息が漏れる。いつもと変わらない一分の隙もない端然とした姿の父が、それでも、心なしかいつもより疲れているように見えた。
「なら、どこかこの辺りに喫茶店はないのか」
「あの……」
幾つか思い当たるカフェ系の店は、恐らくこの時間はすぐに座ることができないだろう。なにより、父がああいう店に入ることは想像できず、今のこの状況で話をするのにも相応しい場所でない気がした。
少し考えてから、大通りから少し奥まった場所にある古びた喫茶店の場所と名前を説明すると、頷いた父は、終わったらそこに来るようにと珠恵に告げて、図書館のフロアから出て行った。
残った閉館業務を済ませる間も、珠恵は殆ど気もそぞろだった。作業と清掃を終えると、挨拶もそこそこに足早にロッカーを出る。
通用口から外に出ると、蒸し暑さと勢いを増した雨の音に気圧されそうになる。手にした傘を開いた珠恵は、雨の中、いつもとは逆の方向へと足を踏み出した。
今朝は、風太から貰った傘を久しぶりにさせるからと、雨天にもどこか浮かれた気分だったのに。父の待つ店に向かう今は、鮮やかなグリーンの傘の下でも、気持ちはこの雨空のように沈んでいる。傘の柄を握り締めながら、珠恵の足取りも自然重くなっていた。
古びた佇まいの落ち着いた雰囲気のその店に入るのは、初めてだった。
コーヒー専門店のようで、レトロな照明器具から零れるセピア色の光が、店内を照らしている。繊細な陶磁器のカップや置物が飾られ、スエード張りの椅子やアンティークな色合いのテーブルが並んでいた。
小ぢんまりとしたその店の奥に、綺麗に背筋を伸ばした姿勢で腰かけている父の後ろ姿が目に入る。少し階段を下った場所にあるそのテーブルの手前で、珠恵は、一度足を止めた。
「お父さん……あの、待たせて、ごめんなさい」
後ろから声を掛け、ぎこちない動きで父の目の前に腰を下ろす。父と顔を合せるのは、自宅の部屋に閉じこもっていたあの時以来で、気まずさに、真っ直ぐに父の顔を見ることができなかった。
注文を取りにきた店員にコーヒーを頼むと、それが出てくるまでの間、二人して無言のまま向き合っていた。
「お待たせいたしました」
手慣れた仕草で、コーヒーカップ、ミルクを珠恵の前に並べて、シュガーポットの蓋を斜めにずらしてから、伝票を筒の中に差し込んで頭を下げた店員がカウンターに戻っていく。流れるようなその動きを、珠恵はただぼんやりと目に映していた。
目の前にのカップからは、コーヒーの良い香りが漂っているはずなのに、緊張のためか何も感じない。
「あの」
「――鍵」
冷たくなった手を握り締めて顔を上げると、いつもと変わらぬ感情の読みにくい平静な顔をした父が、珠恵を見つめて口を開いた。
「え?」
「家の鍵を、持っているだろう」
「あ……はい」
自宅の鍵のことを言っているのだろう。母が昌也に預けてくれた鞄の中に入っていたキーケースに、付けたまま持ち歩いていた。
「出しなさい」
そこでようやく、珠恵は父が何を言いたいのかを理解した。目を僅かに見開いたまま、身動きも取れなくなる。胸がキリキリとした痛みを生むのを感じていた。
――姉さんを、家には入れるなって
そう、昌也が言っていたことを思い出す。
視線の先で、父の瞳が僅かに苛立った色を浮かべるのがわかる。珠恵は、のろのろと椅子に置いていた鞄からキーケースを取り出して、自宅の鍵を外しテーブルの真ん中に置いた。鍵を手離す指が、小さく震えてしまう。
父の手がその鍵に伸び、ギュッと握る。しばらくそこに置かれていた手が、鍵を掴み取っていくのを、珠恵はただ呆然と見つめていた。
「門倉君の方からは、見合いの話はなかったことに、という返事があった」
父の言葉に、テーブルの上を見つめていた顔を僅かに上げる。
「間に立つ人がいるというのに、お前は彼を呼び出したそうだな」
「それ、は……でも」
「珠恵」
でも、や、だって、という言葉を、父は昔から酷く嫌っていた。名前を呼ぶ父の厳しい声色に、長く自分の中に浸み込んだ癖で、思わず言葉を呑み込んでしまう。門倉を呼び出したと父が知っていたことにも動揺した。彼は、あの日珠恵たちとの間にあったことを、どこまで伝えたのだろうか。
「……門倉さんは、何て」
「お前には、もう関係のないことだ」
ピシャリと線を引くような父の答えには、それ以上の問いを重ねることを許さない響きがあった。それに、例えもし門倉が全てを話していたとしても。確かに、今更自分には、どうすることもできない。
「……ごめん……なさい」
「悪いと思ってもいないのに、謝るのはやめなさい」
辛辣な口調に、顔を上げて小さく首を横に振る。父と対していて、緊張していることには変わりはなかった。けれど、何故だろうか、ずっと感じていた威圧感を今は余り感じない。それでも、父の口調が厳しいことに、変わりなかった。
「でも、わ、私が……門倉さんとのお見合いを、最初から断っていたら……お父さんにも、迷惑を掛けることは」
「珠恵」
遮るように父に名前を呼ばれて、珠恵は落としていた視線を上げた。冷たくて厳しい、見慣れた父の顔を見つめる。
「門倉君とのことがあろうがなかろうが、私が、お前とあの男のことを認めることはない。こんな風に勝手に家からお前を連れ出したあの男と、これから先もやっていくつもりでいるなら、お前はもう私の娘とは……家族とは思わない」
「お父、さん」
父が、簡単に二人のことを認めると楽観視しているつもりはなかった。それでも、きっと難しいだろうとそうわかっていても、現実にそれを突き付けられて受けるショックは、想像していたよりもっと痛い。
涙が滲みそうになり、珠恵はそれを堪えるように唇を噛みしめた。
「他人であるお前に、家の鍵を持たせておくわけにはいかない。これは、返して貰う」
さっきまでは珠恵の手元にあった鍵が、父のスーツの胸ポケットに落とされるのを見ながら、流れてしまった涙を慌てて指で拭った。
「あんな男と一緒にいて、お前が不幸になろうが、あとで私の言ったことが正しかったと後悔しようが。それがお前の選択だというなら、戻れる場所があるとは思うな」
家族を捨てても、そばにいてくれ――。
振り絞るように、珠恵に乞うた風太の声が、胸の中に残っている。あの手を離さないのなら、こちらを手離さなければならないのだろうか。そうであったとしても、珠恵の中に風太と離れる選択肢は全くなかった。
「私は……後悔、しません。森川さんにも、そう言いました。それに、森川さんは……あんな男、なんかじゃありません。お父さん、お願いです。ちゃんと……話をさせてくだ」
「あの男の話なら、何も聞くつもりはない」
「お父さん、でも」
風太のことを、こんな風に思われたままでいるのは、どうしても嫌だった。けれど今の父には、まるで異国の言葉を話しているように、気持ちが伝わる気がしない。
「もう一度聞くが、戻るつもりはないんだな」
「森川さんと……別れるつもりは、ありません」
「わかった」
「お父さん……わ…私は……森川さんのことが、好き……です。でも、家のことも」
「もう、いい」
「お父さん」
「別れないということは、戻るつもりがないということだ」
ただもう黙って、首を横に振ることしかできなかった。
「ならばもう、他人であるお前と話すことは何もない」
目の前で珠恵を見つめていた父が、静かに立ち上がる。わかり合えないことが、苦しくて堪らない。風太のことを、わかってもらえるように説得できない自分が、とても悲しかった。
立ち上がったまましばらく、なぜかその場を動こうとしない父を見上げる。
厳しい父だった。厳しくて甘えを許さない、そして確かに自分勝手な父だった。けれど父は、その厳しさを自分自身にも課してきた人だ。例えそれが自分の為であったとしても、そうやってあの家を支えてきたことに変わりはなかった。
静かに目を伏せた父が、スーツのポケットから取り出した物をテーブルの上に置いた。
そこに置かれた物をみて、珠恵がハッと顔を上げた時にはもう、父は、真っ直で隙のないいつもの背中を向けて、レジへと向かっていた。
「お父さんっ」
聞こえたであろう珠恵の声に、振り返ることもなく。支払いを済ますと父は、静かに店を出て行った。
テーブルに残されたものに、手を伸ばして握り締める。
それは――。
父が珠恵から取り上げ解約したと言っていた、携帯だった。