頭の中の想像に動揺して、考えるより先に肩を強く押し返してしまっていた。その動きに、さほど抵抗することもなく風太の体から力が抜ける。
「あ……の」
恥ずかしさはあっても、風太に触れられるのは、決して嫌な訳ではなかったのに。
「……ああ。約束、だからな」
苦々しげな溜息とともに、赤くなっていることがわかる額に唇を落として、そこにあった体温が離れていく。珠恵が拒んだ理由は、風太が口にしたようなことではなかった。そのことに罪悪感を覚える。
風太がこれまでどんな風に女性と付き合っていたのかは、さっき愛華が聞かせてくれたばかりだった。だから、あの人が特別な存在でなかったこともわかっている。頭では、ちゃんと理解しているつもりだった。平気だと思っていたのだ。
何故なのかは未だにわからないけれど、風太が珠恵のことを大切にしてくれていることも、わかっている。それなのにどうしてだろう、頭の中に浮かんだ想像は思いがけずリアルで、珠恵の胸にモヤモヤとした微かな痛みを生み出していた。
まだ整わない呼吸と鼓動とを落ち着けるように胸元に手を当てながら、頭の中ではそんなどうにもならないことを考えてしまう。けれど本音を言えば、風太がさほど抵抗することなく離れてしまったことを淋しいとも感じているのだ。
自分勝手な思いに、珠恵は胸の中で溜息を零した。
珠恵から離れた風太は、缶コーヒーに手を付ける様子もなく机の上に置いて、先ほどまで手入れをしていたのだろう大工道具の前に腰を下ろした。
「……あの」
キスの余韻と、僅かな胸の痛み、そして小さな不満を抱えたまま、珠恵は部屋の入口付近から、横顔を向けて座った風太を見遣った。
「こっちきて適当に座ってろ。もうすぐ終わるから」
「あ……はい」
視線を向けないままの風太の言葉に、ゆっくりと足を動かして、少しだけ離れた位置に腰を下ろす。黙ったままで、道具に手を伸ばし始めた風太の横顔をじっと見つめた。
もう、完全に切り替えているのだろうか―――
さっきまであった熱を感じさせないような、冷静にさえ見える横顔を見ていると、自分から突き放したくせに、自分だけが引き摺られて翻弄されているように思えてくる。視線を向けたまま珠恵がそんなことを考えていると、風太が、小さな溜息を零した。
「あんま、そんな風に見るな」
ようやく顔をこちらに向けた風太が、苦笑いを浮かべる。
「……え?」
「スイッチ、いつでも入るっつっただろ」
「え? ……あ」
不満が、隠し切れていなかったのだろうか。それとも、物足りないような顔をしていたのだろうか。見透かされたみたいで、途端に恥ずかしくなって顔を俯けた。
「仕事、明日もあんだろ。まあ約束したからな一応。……も居るし。にしても……ったく何であんな約束……」
手元に視線を戻しながら、最後は溜息とともに聞き取れないような何かを呟いて、風太はまた止めていた手を動かし始めた。
珠恵の生活のペースが落ち着くまでは、仕事がある日は無理はさせない。と、そんなことを言い出したのは風太だった。枷を作らなければ際限なくなるというのがその理由らしいが、そのあたりのことは深くは追及していない。生活のペースが落ち着いたら枷がなくなるという意味なのか、それも、深く追及するのはやめておいた。
珠恵のために、約束を律儀に守ろうとしている気持ちは確かに嬉しい。けれど、風太に触れたい、この腕に囚われていたい、もっと風太の熱を感じたい――そんな欲が自分にも確かにあるのだと、珠恵も今ではもう知っている。ただ、そんなことを考えていると知られるのは恥ずかしくて、とても口には出せずにいるだけなのだ。
作業の音だけが、静かな部屋に響いている。俯いていた顔をそっと上げて、しばらくの間、黙ってただ風太のすることを見つめていた。仕事の道具を手にする真剣な眼差しに、やがて少しずつモヤモヤした気持ちが薄らいでいく。
鼓動が落ち着いてきた頃、珠恵はようやく口を開いた。
「あの、それ……風太さんが普段使ってる道具ですか」
「ん? ……ああ」
「たくさん、同じような道具があるんですね」
「同じ種類の道具でも、色々使い勝手が違うんだ。まあ、俺のはまだまだ少ねえな。これは殆ど親方のだ」
「親方さん、の」
「ああ。まあ多分、親方はほんとは道具、人に触らせんの嫌なんだろうけどな」
そう答えてから、珠恵から手元へと視線を戻した風太は、一つ一つの道具を丁寧に電灯に翳すように確認し、袋へと戻し始めた。
見たこともないような種類の刃物やノミのような道具が、袋に収められる音が耳に届く。ここにあるのは小さなものだけで、まだ下にもたくさん置いてあるらしい。どこか神聖な気持ちになり、余計な口を挟まないようにと、珠恵は黙って風太の横顔と手元とを繰り返し見つめていた。
作業もそろそろ終わりかと思われた時になって、静かな部屋の中にキュルキュルという音が響く。それが自分のお腹の音だと気が付いて、慌てて手で押さえたところで、後の祭りだった。気付かないで欲しいという願いも虚しく、手を止めた風太が珠恵を見つめるのがわかった。
いたたまれなさに赤くなって俯くと、「腹、減ってんのか」と、茶化す風でもなく気遣いさえ感じられる声色が耳に届く。きっと答えるまでは逸らされないのだろう視線を感じて、ほんの僅かだけ顔を上げてみた。
「あの……いえ」
やはり眉根を寄せたまま珠恵を見ている風太に、もう一度首を横に振る。おなかが減っているわけではないのは確かだった。
「何か食うか」
「いえ、あの……ほんとに、おなかはすいて、ません」
「ほんとか、お前夕飯もそんなに食ってねえだろ」
「えっ、いえあの。たくさん、頂きました」
「あれでか」
確かに、絶食してから多少食べる量は減っていたが、それも少しずつ元に戻ってきている。今日の夕食は鍋で、おいしくて珠恵も家で食べていた時よりもたくさん食べたくらいだった。食べる量の基準を風太達と同じにされたのでは、とんでもないことになってしまう。
「……はい」
食べてなかった時のことが、きっとまだ頭から離れないのだろう。風太が本気で心配しているのだと気がついた。どうしてこんなタイミングで――と少し泣きたくなる。
「ほんとです。あの、家で食べるときより、たくさん食べたくらいで……だから、あの、おなかが減って、鳴ったわけじゃ……」
真剣に弁解していることも恥ずかしくて、早くこの話題を止めてしまいたい。
「なら、まあいいけど」
納得したのだろうか。と、気を抜きかけると、やはりそれだけでは済まなかったようで、昼はちゃんと食べたのかと聞かれた。
「はい。あの……真那ちゃんと」
「何、食った」
「あ、オムライスを」
「……それだけか」
「サラダとスープがついたランチです。でも、多分……普通じゃないかと」
どちらかといえば、しっかり食べた方だ。
「オムライス、なあ」
「図書館の近くに新しく出来たお店で、食べたのは、紅茶のオムライス、だったんです」
「紅茶? オムライスって、卵とケチャップじゃねえのか」
不思議そうな顔をした風太に、その味を説明した。
「そんなもんまであんのか」
「はい」
「よくわかんねえな。……普通のも食ったことねえから」
「え?」
「ああ、オムライス」
「あ、……嫌い、なんですか?」
「食ったことねえから、わからねえな。食う機会がなかったっつうか」
「あ、そうなん、ですか」
ようやくおなかが鳴ったことを放免されたのか、再び風太が道具に手を伸ばし始めた。
「ああ、そういや、ほら、あれも食ったことねえな」
その手を止めて、ふと思い出したように口にする。
「あれ?」
「ガキが食うやつ。ファミレスとかにあるだろ」
「あ……お子様ランチ? ですか」
「ああ……。初めてあれ食ってる奴見た時、何かわからなくてな」
「え」
「ほら、なんか飯なのに旗が立ってたり、変な皿にのって玩具が付いてたりすんだろ」
「はい」
「ファミレスかどっかで、隣の席で食ってるやつ見て」
「……はい」
「あれ、何だって、連れに聞いて、初めてそういうのがあるって知った」
「そう、ですか」
「腹、いっぱいにならねえな。あれじゃ」
横を向いた風太の口元に浮かんだ僅かな笑みを見つめながら、珠恵は思い出していた。桜の下で聞いた、風太の幼い頃の話を。
笑って話す風太が、お子様ランチやオムライスを食べたことがない理由が、わかったような気がした。
作業を終えたらしい風太が、新聞を畳んで少し待ってろと言い置いて部屋を出ていく。
一人きりになった部屋。主がいなくてもその存在を強く感じる風太の部屋の中で、まだ子どもだった頃の風太に、それを食べさせてあげたかったという思いが珠恵の中に強く浮かんだ。
無理だとわかっていてもそう思わずにはいられなくて。それが無理ならば、せめて今の風太に、食べてもらえないだろうかと、そんなことをぼんやりと考えていた。