結果的に、風太と一緒だったおかげで、帰宅後も過度に緊張を覚えずに済んだように思う。それは、必要以上に珠恵を客扱いせず、遠慮なく使ってくれる喜世子の気遣いや、従来から感じていたこの家の馴染みやすさのおかげもあるのだろう。
昨日までと同じように居間で皆で食事をとり、片付けを終えて入浴を済ませて。そうして珠恵が和室に戻ってみると、そこに風太の姿は見当たらなかった。
居間だろうかとそちらを覗いてみると、めずらしく部屋に戻らずにテレビを見ながら笑っている愛華しかいない。
「あの……」
風太を知らないかと声を掛けようとした珠恵に顔を向けた愛華が、一瞬テレビの画面に戻した顔をもう一度振り向けて「ねーねー珠ちゃん」と、手招いてくる。
呼ばれるままに近付くと、再び愛華はテレビの方へと顔を向けた。つられて視線を送ると、これから店に出勤するのだという華やかに着飾った女性が、インタビューを受けている。同性から見ても色気を感じさせる綺麗な女性だった。
「やっぱさぁ、こんなん見てたらまさかって思うよねー」
独り言なのかそれとも話し掛けられているのかがよくわからない呟きに、黙って愛華を見つめていると、テレビの画面を見ていた瞳が珠恵へと向けられる。
「いいこと教えたげよっか」
顔を寄せた愛華の目には、どこか楽しげな笑みが浮かんで見えた。
いったい何のことだろうか――と首を傾げたその数分後、なぜか珠恵は、殆ど口を挟む余地もなく、聞くつもりもなかった風太のいわゆる女性遍歴を、聞かされていた。
「――んな感じだったんだって。今までそんなんばっかだったし。だからさぁ、逆に今みたいな風太あり得ないし見てらんないっつーか。だいたいさあ、珠ちゃんみたいのがタイプとか超想定外だったし。あ、ふくへーっつうんだっけ、こういうの。あれ、違う? 何だっけ……あっ、そうそう、トンビがタカっ」
「バカ、愛華あんた、なに余計なこと珠ちゃんに吹き込んでんの」
突然話に割り込んできた声に、珠恵の方が声を上げそうになる。帳簿を手に居間に戻って来た喜世子が、呆れたようにノートで娘の頭を軽く叩いていた。
「ったいなあっ、暴力反対」
「ちょっと撫でただけだろうが。だいたい、それ言うなら鳶に油揚げ持ってかれる、じゃないか。あんたはちゃんと勉強しないから――」
「うざっ」
「誰がうざいって」
「あーはいはいはいはい。もーいいからちょっと邪魔。今、珠ちゃんとしゃべってんの。教えてあげてんじゃんねー風太のこと色々」
「あ……う、ん」
「どうせ聞かれた訳でもないのに、あんたが勝手にペラペラ喋ってんでしょうが」
「今カノとしては男の過去が気になんじゃん。でも、珠ちゃんじゃ聞けなそうだし」
「何でも知りゃあいいってもんじゃないだろ。珠ちゃんも、この子の言ったこと真に受けて変に気にするんじゃないよ」
「あ……いえ、そんなこと」
「嘘は言ってないじゃん」
「愛華っ」
「あのっ、ほんとに」
間に挟まれた珠恵の声など、殆ど二人の声にかき消されていた。
「もーマジうざ」
立ち込め始めた不穏な空気に、顔を顰めさっさと立ち上がった愛華は、ブツブツと言いながらそのまま居間を出て行ってしまった。喜世子の方も小言を口にしながら、困ったような顔を珠恵に向ける。気になどしていない、と笑みを浮かべて首を横に振った。
愛華からは、以前珠恵に向けられていた刺々しさのようなものはもう感じられなかった。きっと今のも愛華なりに、風太には特別な人がいたわけじゃない、と伝えようとしてくれていたのだろう。
珠恵とは違って、風太に今まで誰もいなかった筈がないことはわかっている。過去があって今の風太がいるのだと、頭では理解しているつもりだった。だから、どんな顔をすればいいのか困りはしたが、愛華の話に胸の痛みを覚えることはなかった。
ないと、この時はそう思っていた。
帳簿をつけ始めた喜世子に、そういえば、と、風太の居所を知らないか聞いてみる。
「ああ、まだ道具の始末が少し残ってるから、作業場にいるって。車庫の奥がね、作業場になってるから、そこか自分の部屋のどっちかにいると思うけど」
「そうですか。あの……喜世子さん」
「ん?」
「作業場って、私が行っても、大丈夫でしょうか」
仕事の場に足を踏み入れていいものかわからず尋ねると、構わないよ、と答えた喜世子は、「ちょっと待って」と立ち上がり台所へと姿を消した。
「珠ちゃん、あんたもアイスコーヒー飲む? 缶だけど」
奥から問い掛けてくる声だけが聞こえる。
「あ、すみません、私、あの、夜は飲むと眠れなくなるので」
「そう。じゃあこれ、ついでに風太に持ってってやって」
戻って来た喜世子に、風太が飲みたがってたからと冷えた缶コーヒーを手渡たされた。それを手に玄関の外に出てみると、昼間に比べれば幾分涼しいが、それでもムッとしたぬるい風が身体を覆う。
母家の隣の倉庫兼住居になっている建物へと足を向け、外階段の手前まで来て珠恵は足を止めた。
――風ちゃん
ここに来るのは、あの日以来だと気が付く。不意に、この階段を慣れた風に上がっていった人の、ピンヒールから伸びた綺麗な素足と甘く香った残り香を思い出して、胸の辺りが、ざわざわとした。
きっとさっきあんな話を聞いたからだ。気にしたところでどうにもならないことだと小さく溜息を吐いて、珠恵は車庫の方へと近付いて行った。
入口付近で立ち止まり、戸惑う。シャッターが下りていて、どこから入ればいいのかがよくわからなかった。数歩下がって二階を見上げると、風太の部屋に明かりが灯っているのが見える。二階にあがってみた方がいいだろうか――そんなことを考えていると、後ろで足音が聞こえた。
「あれ? 珠ちゃん」
振り返ると、階段の下で翔平がこちらを見て立ち止まっている。
「何してんの?」
「あ、あの……風太さんが作業場にいるって聞いて、でも、シャッターが下りてるから」
「あ、そっか。そこ、奥にも入口があってそっから入んだ」
「え、あ、そうなんだ。ありがとう」
「ちょっと待って。もう上がってるかもしんないし、俺が見てくるから」
階段を上がりかけていた足を下ろして、翔平が奥に向かう。建物の側面、奥まったところにあるらしい扉に手を掛け、引いたり叩いたりする様子が伺えた。何度かそれを繰り返し、戻ってきた翔平が二階を指差す。
「閉まってるみたいだから、多分部屋にいんじゃないかな。あがる?」
「あ、うん」
「ここの階段急だし、珠ちゃん先に行きなよ」
頷きながら、珠恵はそういえば翔平にまだ挨拶をしていないことを思い出した。今日は遊びに行っていたらしい翔平は、晩御飯の時にはいなかったのだった。
「ありがとう。あの、翔平君、まだ言ってなかったから。お帰りなさい」
「えっ、あっ、たっだいまっ」
弾んだ口調がおかしくて、口元に笑みを浮かべたまま、階段へ足を掛け先に上がらせてもらう。確かに、慣れない珠恵が薄暗い中で上るには少し怖いくらい急だった。
「落ちても大丈夫だって。受け止めてやるし」
「重いから、無理だと……」
「風太さんほどじゃないけど、俺も結構力あんだって。試しに落ちてみなよ」
翔平の言葉に笑いながら、手すりを持ち、恐々と上がって行く。階段を上りきり小さな踊り場に辿り着いた珠恵は、扉に手を掛け翔平が中に入れるようにそこを押さえた。
「上がるの、遅くてごめんね」
「えっ、あ、いや……あー、いいから、珠ちゃん先入って」
少し慌てたような早口で答えながら、翔平が後ろから手を伸ばして扉を押さえてくれる。その間に、先に中へ入り、サンダルを脱いで廊下に上がった。
「あの、ありがとう」
「あー……いや、うん」
ここに上がるのは、風太の怪我を見舞った時以来だと思うと、途端に緊張が込み上げる。振り返ると、後から入って来た翔平と目が合った。すると、何故かあからさまに目を逸らされる。僅かに戸惑いを感じていると、わざとのようにゆっくりと靴を脱ぎながら翔平がボソリと口を開いた。
「珠ちゃん、さ」
そう言ったきり、何も口にしようとしない。
「翔平くん?」
「や、だからあのもしかして、風呂入ったばっか?」
「え、あ……うん。少し前だけど。え……どうして?」
「……ぃぃにおいが」
ボソボソとした呟きは、珠恵にはよく聞き取れない。
「え?」
「あ、い、いや、別に。……あっ、それ、風太さんにだろ」
目を合さないまま視線を珠恵の手元に向けた翔平に、頷きながら、やはり様子が気に掛かる。コーヒーが飲みたいのだろうか。それとも風呂が空いてるかと聞きたいのだろうか。
「あの、多分母家に行けば貰えるって思うから、コーヒー、翔平君の分も貰って来ようか」
そんな風に尋ねてみても、返事がなかなか返って来ない。
「あ、お風呂なら、多分今なら誰も入ってないと思うけど」
「…………」
「翔平、くん?」
「……えっ」
ハッとして顔を上げた翔平の顔が、僅かに赤くなる。
「あっ……俺、いや、何でも。えっと風呂は、だからコーヒーで」
翔平がしどろもどろに何かを口にしているその時、珠恵のすぐ後ろのドアが開いた。
「……うゎ」
振り返った珠恵よりも先に、翔平が声を上げる。ドアの奥から顔を覗かせた風太が、怪訝な表情で二人を見遣った。
「何やってる」
「風太さん、あの、喜世子さんがコーヒーをって」
「ああ」
それ程関心がなさそうに珠恵の手元をチラッと見た視線が、再び翔平に向けられた。疲れているのだろうか、少しだけ機嫌が悪そうに見える。
「で、お前は何やってる」
「えっ、お、俺は今、帰って来たとこで」
「あの、作業場の入口がわからなくて、私が下で迷ってたら、そしたらちょうど翔平君が帰って来て。ね」
「珠恵」
同意を求めて翔平に向けた視線は、やはりさっと逸らされてしまう。答えを聞いていたのかもよくわからない風太が、視線だけを珠恵に向けた。
「あ、はい」
「中、入っとけ」
「え?」
「コーヒー、ぬるくなる」
確かに風太が押さえているドアの向こうからは冷えた空気が流れてくるが、廊下は、冷房がないためムッとしている。
「あ、そうですね、あ……でも」
慌てて返事をしてから、翔平へと視線を向けた。何故か怯んだような顔をした翔平が、何度も瞬きを繰り返す。
「翔平くんも、コーヒー」
「えっ、いやっ、珠ちゃん、俺っ、風呂っ……空いてるんだよな。そう、風呂入んなきゃいけねえし」
「そうだな。明日も早えしさっさと入れ」
「あの、しょうへ」
「じゃ、俺、急ぐから珠ちゃんおやすみ」
「あ……は、い……おやすみ、なさ」
追い立てるように早口になった翔平に目を丸くした珠恵は、お休みなさいを返し終わらないうちに、力強い手に腕を掴まれ、部屋の中へと引き込まれていた。
「それ、奥の机に置いてくれ」
「あ……はい」
ドアに寄りかかっている風太を見上げると、その目が奥に行けと言っているようで、珠恵は訳がわからないままそれに従い部屋の中へと足を踏み入れた。
小さな板間と、六畳程度の畳敷きの部屋。足を踏み入れたところで振り返ると、扉から顔だけを外に出した状態の風太が、翔平と何か話している。けれどその内容までは、聞こえてこなかった。
もう一度部屋の中へと顔を向けると、風太の気配や匂いを感じて、鼓動が少し早まる。ここ数日の間過ごしていた母家の部屋は客間だったが、この部屋は風太の存在を強く意識させられる。初めて足を踏み入れたそこで、珠恵は立ち尽くしたままそっと視線を動かした。
教科書やノートが置かれたままの古そうな木の机、新聞の上に広げられたたくさんの大工道具、小さなテレビと、部屋の隅に畳まれた布団の上にはスウェット、壁につるされた長袖のTシャツと作業着、その辺りに積まれた洗濯物や、無造作に置かれた教科書。殆ど、余分なものがない部屋。
「なに突っ立ってんだ」
不意に声を掛けられて、じっと部屋の中を見てしまっていたばつの悪さに慌ててしまう。
「えっ、あの」
「コーヒー、一本だけか」
「あ、はい。私、夜に飲むと眠れなくなるので」
そうか、と言いながら缶コーヒーを取り上げた風太は、部屋の奥に入るでもなく、じっと珠恵を見つめている。
「あの、風太さんは……」
「ん?」
「コーヒー……飲んでも、眠れ、ますか」
尻窄みになる問いに答えはなくて。やはり少し不機嫌そうな顔のまま、見つめられていることの落ち着かなさについ珠恵の視線が泳ぐ。黙ったままの風太の指が顔の近くへと伸ばされて、髪を遊ばせるように触れたそれが、絡めた毛先を持ち上げそこに唇が落とされた。
「っ……風太、さんあの」
珠恵は、息を止めたまま身動きもできず固まっていた。触れられたのは感覚のない髪の毛先だというのに、まるでそこに神経が通っているかのように、体温が上がる。
「なんだ」
「いえ……あの」
「いつものと、違うな」
「……え」
「シャンプー、変えたか」
驚きに目を丸くする。確かに今日は、帰る間際に板野から貰ったシャンプーの試供品を使っていた。フルーツの香りがするそれは、板野の夫が勤めている会社がこの秋に売り出す新製品だという。けれど、まさかそんなことに気付かれるなんて思いもしなかった。
「香り、キツいですか」
「……いや」
視線を上げると、風太の顔がさっきまでより近くにあって、珠恵を見つめる瞳に熱のようなものが浮かんでいる。甘いのにどこか怖くて、慌てて瞬きを繰り返す。
「新製品のサンプルを貰って」
「ああ」
「あの、図書館の司書の先輩から分けて貰ったもので、あ、あの、ご主人の会社がこれから売り出す商品みたいで」
「……へぇ」
「使ったら感想を聞かせて欲しいってそれで今日はそれを使ってみて」
口調が早くなり、声が上擦ってしまう。珠恵は、なぜだか言い訳をしているような気分になっていた。
「感想か……」
「え」
視界がブレた気がしたと思うとすぐに、温かなものが唇に触れる。髪から離れた手に顔を上向きにされてから、もう一度微かに触れるくらいに唇が重ねられた。
「食いたくなるな」
「あ、の……んっ」
軽く触れて啄ばみ、本当に緩く食むようなキスが間断なく繰り返され、少しずつ頭がぼんやりとしてくる。次第に触れている時間が長くなると、舌が唇をゆるくなぞる動きに、珠恵の身体に甘い痺れが走った。
後頭部に回った手に少し強引に引き寄せられ、再び唇が塞がれる。風太の袖を握り締めたまま、珠恵はいつしか目を閉じてしまっていた。瞼に落ちた唇に、そのことに気付かされてゆっくりと目を開けると、ほんのすぐ目の前に珠恵を見つめている双眸があって、そこに籠る熱に眩暈がしそうだった。
「……ふ、たさ」
コーヒーの缶を二本の指で持ちながら、遊んでいる指がそっと唇をなぞり、早く次を食わせろとせっつく。緩んだ隙を伺うように、すぐに割り入ってきた舌に絡め取られ深まっていくキスに、息が上がってしまう。水音を立てて離れたと思った唇はすぐに戻ってきて、角度を変えることを幾度か繰り返した。
膝の力が抜けて崩れ落ちそうになる身体を、風太の腕が支えていて、気が付けば珠恵も目の前の肩に縋りつくように腕を廻していた。重なる肌の異なる体温を感じて、頭の中が熱で溶けそうになる。唇が解放された隙に薄っすらと目を開けると、射るような眼差しをした風太と視線が絡み合った。
――風ちゃん
不意に珠恵の耳の奥に、さっき階下で脳裏に浮かんだ人の声が響いた。その途端、意識がそちらへと逸れてしまう。
ここで、この部屋で、こんな目をあの人にも向けて、こんな風にあの人にも触れたのだろうか――と。
「待っ……風太、さ」