本編《雨月》

第十六章 雨とオムライス5




「ん?」
 運転席に乗り込んだ風太は、珠恵の問いにもならないような声に応えるように、助手席へと身体を向けた。
「ああ」
 後部座席へと伸ばされた手が、珠恵の視界に映るものを掴み上げる。
「それ……」
 目の前に差し出されたものを、どこか現実じゃないみたいに見つめて、珠恵は風太へと視線を移した。
「どうして」
「忘れ物で届いてねえか、聞いてみた」
「届いてたんですか?」
 つい、声が大きくなる。
「ん? ああ、まあ……」
 聞いておきながら、殆ど答えは耳に入っていなかった。そっと手を伸ばして、指に触れたそれを風太から受け取った途端、鼻の奥がツンとする。後部座席に置かれていたのは、珠恵が電車に忘れたはずの、緑色の傘だった。
 あの日、この傘を失くしたと思った時、風太との繋がりが全て断たれたような気がした。けれど今、風太は目の前にいて、そして失くしたはずの大切な傘は、風太の手から珠恵の元へと戻って来た。
「……んなに、嬉しいか? そんな傘くらいで」
 手渡された傘の柄をギュッと握り締めた珠恵を見ている風太の、わからないと言いたげな顔を見ながら、強く頷く。雨の日のどこか沈んだ景色に、彩りを与えてくれていた緑色の傘。この傘は、珠恵にとって、特別なものだった。
「うれしいです。……ありがとう、ございます」
 本当は今すぐこの傘に、いや、目の前の人に抱きついてしまいたい程嬉しかった。けれど生憎そんなことをする大胆さは持ち合わせていない。むしろそんなことを考えた自分が恥ずかしくて、風太に向けていた視線を傘に戻した。
「あー、それ……な」
 少し歯切れ悪そうに口を開いた風太が、珍しく口籠る。視線を向けると、しばらく珠恵を見つめた風太は「いや……いい」と、何か言いかけた口元を噤んでしまった。
「帰るか」
 何でもないというように首を振ってから、風太は、ハンドルに手を掛けアクセルを踏み込んだ。
 傘にばかり意識がいっていた珠恵は、そんな風太の態度を疑問に思うこともなく、もう一度存在を確かめるように手元へと視線を落とした。その時、ふと手に残る違和感と共に、あることに気が付いた。
 手渡されたこの傘は、柄に硬いビニールが巻かれている。あの時買って貰った傘のそれは、あちこちが捲れてきたために剥がしてしまったはずだった。
 ――あー、それ……な
 さっき、風太が何を言いかけて止めたのか、途端に気がつく。これは新しい傘なのだ。探してくれたのは本当だったのだろうけれど、きっと見つからなかったのだ。
 車を運転しながら僅かにこちらへ顔を向けた風太が、抱き締めるように傘を握る珠恵に、呆れたような笑みを零す。
「抱いて寝るつもりじゃねえだろうな」
 その横顔を見つめながら、風太のついた小さな嘘に、胸の中があたたかくて泣きたいような気持になる。これがあの傘でもそうでなくても、もうそんなことはどちらでもよかった。
 風太がくれた二本目のこの傘も、手渡されたその時から、珠恵にとって大切な宝物になった。

 喜世子からの頼まれごとがあるからと、いつもとは違う経路で帰途につきながら、しばらくして風太が口を開いた。
「で、仕事どうだった」
「あ、はい。久しぶりで身体がちょっと鈍ってました。けど……やっぱり楽しかったです」
「そうか」
「あ、あの、真那ちゃんが、風太さんによろしくって」
 今風太の元にいることを話したら、真那がとてもびっくりしていた、と言うと、小さく息を吐くように笑った頬が僅かに窪みを作る。
「そりゃ、そうだろうな」
「あの、話してしまってよかったですか?」
「別に俺は構わねえよ。あの子には世話んなったしな。俺からも礼を言っといてくれ」
「はい」
 信号が赤に変わり、少しの間会話がそこで途切れた。信号を見るともなく見上げている風太の横顔をそっと様子を窺うように見つめて、「風太さん」と呼びかけてみる。
 珠恵へと視線を移した風太の眉が、微かに上がる。当たり前のように、すぐに応えてくれることがとても嬉しくて、心がフワッと浮き上がるような気がした。
「あの、風太さんは今日、何をしてたんですか?」
「んー、ああ……」
 何も考えずに問い掛けてから、どこか答え難そうな様子に、もしかして詮索してるようで鬱陶しかっただろうかと慌ててしまう。
「あ、あの、別にいいんです」
 正面に視線を戻した風太は、苦笑いを浮かべたまま、やはり言いにくそうに答えた。
「まあ一応……勉強をちょっとだけな。あと、道具の手入れと。つっても、起きたの殆ど昼だけどな」
「あの、勉強って、学校のですか」
「ん、まあ、明日からテストだって思い出したから、一夜漬けみたいなもんだ」
「え、あの、テスト前だったんですか?」
 信号が変わり、アクセルを踏み込んだ風太から、軽く睨むような視線が向けられる。
「珠恵」
「……はぃ」
「すいません、とか言うなよ」
「え……あ」
 この数日、風太は珠恵のことで、学校や勉強どころではなかったはずだ。偉そうに学校に行けと言いながら、自分が一番迷惑を掛けていることが居た堪れなくて、先に釘を刺されなければ、確かに謝るところだった。ばつの悪さに目を泳がせて、慌てて飲み込んだ言葉が、消化不良を起こしたみたいに胸につかえている。
「やっぱり、か」
「すみま……」
 慌てて口を噤むと、呆れた顔をした風太とほんの一瞬視線が絡んだ。
「あのな……」
 先に目を逸らして前を向いた風太が、どこか溜息混じりで口にする。
「学校、これでも結構真面目に行ってるから」
「え」
「お前と……会ってなかった間も、学校だけは、な」
 会ってなかった間。その言葉に、胸が小さく締め付けられる。今は二人で帰る家への道のりを、雨の中ひとり歩いていたのはほんの数日前のことだ。その時の寄る辺ないような気持ちを思い出し、つい、傘を握る手に力が入った。
「ちゃんと行かなきゃ意味ねえだろ、お前に教えて貰ってた。それに、お前学校のことばっかり言ってたしな。そういや、今回もそうだったな」
 横顔を見つめていると、可笑しそうに口角が軽く上がる。伝わってくる風太の気持ちに嬉しさが込み上げながらも、最後の事柄に思わず顔が熱くなった。
「あの……煩かった、ですか?」
「別に嫌じゃねえよ、お前のは」
「あ……はい」
「とにかく、ちゃんと、かどうかはともかく、授業は受けてんだ。だからテストの出来が悪くても、それと今度のこととは関係ねえ、俺の頭の問題だ。翔平も何とかなるって言ってたしな。まあ、あんま参考にはならねえけど」
 揶揄を含みながらも、珠恵に言い聞かせようとするその言葉に頷こうとして、ふと我に返る。ここで頷いたら、今の言葉全部を認めてしまったことになるのだろうか。半端に頷きかけた顔を上げると、不意に風太の顔つきが変わった。僅かに険しくなった視線を追って、辿り着いたその先に、トクっと鼓動が跳ねる。

「あ……」
 あの日とは全く違う景色の中、けれど確かに見覚えがあるそこは、激しい雨の降る月曜日に風太と再会した場所だった。今日はまだシャッターが下りていないそこが、宝飾品や婦人服を置いている店だったのだとわかる。
「とめて下さい」
 咄嗟に風太の腕を掴み揺すっていた。すぐにハザードを点けた車が、道路脇に寄って止まる。後ろを走っていた車が、軽くクラクションを鳴らして脇を通り過ぎたけれど、そんな音もどこか遠い所にあって、代わりに、降ってもいない雨水をタイヤが撥ねてゆく音が聞こえた気がした。
 あの夜の胸の痛みを、まるで今感じているかのように錯覚してしまう。ハンドルから手を離した風太が、ゆっくりと珠恵の方へと顔を向けた。存在を確かめるようなその目を見つめ返しながら、珠恵は、自分もきっと同じような顔をしているような気がした。
 どうして――。不意に、珠恵の頭の中に疑問が浮かんだ。
「どうして……。風太さん、どうしてあの時、あそこにいたんですか」
 今の今まで、なぜそのことを考えなかったのだろうか。
「どうして……」
 私を、見つけてくれたんですか――。最後の言葉は口には出せず、ただ強く風太の腕を握り締めた。しばしの間、問いの答えを探すように黙って珠恵を見つめていた風太は、席に凭れ掛かり微かに苦笑いを零した。
「さあ……何で、だろうな」
 静かにそれだけを口にして、どこか遠い所を見つめるような眼差しが外へと向けられる。
 絶え間なく落ちる雨をただぼんやりと見上げて、もう二度と会えないのだという諦めを抱えながらも、あの時、珠恵の心の中に存在していたのは、風太だけだった。何かに引き寄せられるように、振り向けた視線の先にその人の姿が映った時、息が止まってしまうかと思った。止まっても――構わないとさえ思っていた。
「そんな、はずないって……風太さんのはず……だから……きっと幻だって、あの時」
 駄目だと思っているのに、込み上げてきた感情を制御出来なかった。あの時の気持ちが、今頃になって溢れ出てしまう。もしもあの時の風太が本当に幻だったなら、こうしている今はなかったのだ。
「会いたいって……風太さんに、会いたいって、ずっとそればっかり……でも、もう会えないって……だから、なのに、なんで」
 声が震えるのを堪え、顔を伏せて支離滅裂になる言葉を飲み込む。黙ってそれを聞いていた風太が身体を起こす気配を、珠恵はどこかぼんやりと感じていた。
「珠恵」
 静かな、低い声。名前を呼ばれるたびごとに胸の奥を震わせるその声に、ゆっくりと俯けていた顔を上げる。シートベルトを外した風太の顔が、内緒の話をするかのように近付き、ほんの一瞬唇が触れ合う感触を残して、すっと離れていった。
 車のクラクションが、まるで冷やかしのようなタイミングで鳴らされて我に返る。
「……ぁっ、え」
 瞬きを繰り返して、何が起こったかを理解した途端、耳元まで熱が込み上げ火照った顔をまた俯けた。日が落ちてきたとはいえ、夏の夕暮れは長くまだ明るさも残っている。人影も決して疎らではない。あっという間の出来事だから、見ていた人などいないはずだと言いきかせてみても、珠恵には周囲を見渡してそれを確かめる勇気はなかった。
 いくら車の中とはいえ、突然キスされたことに狼狽え過ぎてしまって、さっきまで感じていた心細さは何処かに消え失せていた。代わりに、どうしようもない羞恥が込み上げる。
「……なあ」
 からかわれると思いながら、ほんの僅かだけ顔を上げてみると、店の方へと顔を向けた風太が、ポツリと口を開いた。
「なんで、とか、考える意味あんのか?」
 耳の奥に届く言葉とともに、風太の眼差しが珠恵をとらえた。
「理由が、欲しいのか?」
 あの時、風太と会えた理由なんて、きっとどうでもいいことなのだ。今こうして二人でいるのだからそれでいい。そう言われた気がした。
「いり、ません」
 じっと珠恵を見つめていた風太の目元に、不意に、どこか悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「幻はさっきみてえなことしねえだろ」
「さっきみたい……って」
 重苦しかった空気が変わる。ハザードランプを切り右のウインカーを点滅させた指がハンドルを回し始めた途端、それがキスのことだと気が付き頬が熱を持った。
「だいたいな、今の俺の頭ん中知ったら、お前、確実に幻の方が良かったって思うぞ」

 風太のその言葉に驚いて、珠恵は咄嗟に首を振った。
「そんなこと、思ったりしません」
「そうか?」
「思いません」
 幻の方が良かったなんて、絶対に思ったりしない。風太の考えていること――それが何かと思うより先に、どこか揶揄を滲ませた声色に、珠恵もついムキになって答えてしまう。
「ほんと、です」
「へえ……」
「ほんとに思いません」
「すんっっげえ、エロいことでもか」
「はい。……へっ?」
 思いもしなかった答えに、狼狽えておかしな声が出てしまう。
「……か、からかってるんですか」
 けれど、辛うじて言い返した言葉にチラッと珠恵を見遣った風太は、茶化して言ったのだとはとても思えない顔をして、何故か小さな溜息を零した。
「お前なぁ」
「……はい」
「さっきみたいなこと、あんま外で言うな」
「え?」
 話のつながりが見えずに、頭に浮かんだ疑問をそのまま返す。
「さっきみたい、って」
「ったく、こっちは簡単にスイッチが入んだよ」
 独り言のような、不満げな風太の呟きが耳に届く。
「あの、風太さ」
「何だ」
「スイッチ、って」
「外じゃなきゃ、確実にヤってるってことだ」
「えっ、ヤっ……」
 全くオブラートに包まれていない答えのお蔭で言いたいことを理解した途端、上がった体温が、指先まで熱を灯す。これ以上、深くは追求しない方がいい気がして、珠恵は口を噤んだ。
「そういや珠恵」
 まだ、不服げな声は続いていて、他にも何かあるのだろうかと怯んでしまう。
「……は、ぃ」
「朝、なんで起こさなかった」
「え?」
「起こせっつってたのに」
「え、あの……でも」
 思い出したことで不機嫌になったのか、流してくる視線にも笑みはない。
「風太さん、せっかくお休みだし、よく寝てたから、だから、起こしたくなくて……すみ、ません」
 不満を隠そうとしない風太に、すみません、と口にしても今度は怒らないのだから、これは謝るべきところだったのだろうか。いったい何に触発されたのか、急に今朝のことを持ち出した風太に少しだけ腑に落ちなさを感じる。
 けれど、「起きねえ俺も有り得ねえけど」と、まだブツブツ口にしている風太の顔は、本気で怒っているというよりどこか拗ねているようにも見えて、内緒だけれどちょっとかわいいと思ってしまう。
 さっきまでの感傷じみた思いは余韻だけを微かに胸の奥に残して、代わりに、柔らかな気持ちが、珠恵の胸の中を満たしていた。


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