本編《雨月》

第十六章 雨とオムライス4



 昨日までの空白が嘘のように、仕事に入ってしまえばすぐに当たり前に働く感覚が戻ってくる。いつの間にかそれくらいには、自分もこの仕事に馴染んでいたのだと改めて感じながら、珠恵は慌ただしく業務に追われ、気が付けば終業時間を迎えていた。
 心地よさと、けれどやはり僅かにいつもよりは疲れを感じながら、ロッカールームへと戻り扉を開ける。中にいたのは、ちょうど帰る支度を終えた板野だった。
「お疲れ様です」
「お疲れー。今日はほんとに疲れたんじゃない」
「あ、いえ」
 答えながら、ロッカーを開けて帰り支度を始める。後ろで椅子を引く音がして振り返ると、板野がそこに腰を下ろしてじっと珠恵の顔を見ていた。
「あの……」
「で。体調は、本当にもう大丈夫?」
 なんとなく、板野が聞きたいことは他にあるのではないかと感じるような視線を受け止めながら、罪悪感もあり、ほんの僅かにだけ頷く。
「長く、休ませて頂いたので」
「まあ、珠ちゃん若いもんね」
「いえ、そんな……でも、今日はやっぱり、凄くあっという間に時間が過ぎた感じでした」
 緩やかに口角を上げた板野が、少し逡巡するような表情をみせてから「ねえ、珠ちゃんさ」と口を開き始めたタイミングで、勤務を終えた他の職員がポツポツとロッカールームへ戻って来た。
「お疲れー」
「お疲れ様です」
 挨拶を交わしてから、言い掛けた言葉を飲み込んだらしい板野と目を合わせる。
「真那、待ってる?」
「あ、いえ。今日は真那ちゃん、もう少しかかるみたいだし」
「じゃあ、もう帰れる?」
「はい」
 鞄を取り出した珠恵がロッカーの扉を閉めると、板野も、鞄を手に取り立ち上がった。
「じゃ、駅まで一緒しよっか」
「あ、はい」

 板野の自宅は、駅からは別の路線になる。まだ残っている職員に声を掛けてから、二人で図書館を後にした。職員通用口の扉を開けると、ムッとした熱気が押し寄せてくる。
「うわっ、暑い」
「中にいると、忘れてしまいますね」
「ほんと」
 暑さに顔を顰めてから、公園を通り抜け駅へと向かう。黙って隣を歩く板野に、さっき言い掛けたことを尋ねてみようかと思った時、前を向いたままの板野が先に話し始めた。
「あのさ、さっき言いかけてたことだけど」
「はい」
「言いかけたっていうか、聞きかけたことだけどね」
 板野の横顔を盗み見るように見つめながら、少しずつ緊張感が込み上げる。
「違ってたらごめんね。珠ちゃんさ……本当に、風邪だった?」
「え……あ、あの」
 風邪をひいたというのは明らかに嘘なだけに、狼狽えた珠恵は口籠ってしまった。
「あ、違う違う。あのね、珠ちゃんが何の理由もなくこんな風に休んだりする訳ないのはわかってるから。ちょっと痩せたみたいだし、体調がよくなかったのは本当だろうなって思ってるけど」
「あの……私」
 後ろ暗い気持ちがあるだけに、問われている内容にも、本気で心配してくれていることが伝わる口調にも、申し訳なさに心臓の辺りが痛くなる。鞄を握り締めたまま顔を上げられずにいると、板野が不意に足を止めた。
「休んだ事情は言わなくていいから。ていうか、本当はこっちが聞きたかったんだけど」
 立ち止まった珠恵が顔を上げると、板野は、言葉通り責めるようでも問い詰めるようでもなく、口元に笑みを浮かべていた。
「何か、いいことあった?」
「…………え?」
 思いがけない言葉に口を開いたまま戸惑っている珠恵を促し、板野がまた歩き始める。
「板野さん、あの、いいことって」
 いいことにも、よくないことにも。心当たりなら嫌という程あった。さっきとは別の意味で、心拍数が上がっていく。
「んー、例えば、お見合いが上手くいったとか」
「あ……」
 横から珠恵の顔を覗き込むように見た板野の表情が、なぜかさっきの真那の顔と重なる。真那から何か聞いているのだろうか。けれどそれならば、見合いが上手くいったとは言わない気がした。
 以前、板野にだけは気になる人がいると打ち明けたことがあった。だから風太と会わなくなってしばらく経った頃、前に言ってた人と進展があったか、と聞かれた時に、ふられたことも見合いをするのだということも、話していた。
 ――そっかあ…
 珠恵を慰めるような優しい笑みを浮かべながら静かに何度か頷いただけで、板野はそれ以上は何も問わずにいてくれた。まだ何でもないことのようには、風太とのことを話せなかったあの時の珠恵にとって、そんな板野の態度や優しさは、とてもありがたいものだった。
 だから、板野の問いにどう答えるべきか、珠恵が迷ったのは少しの間だけだった。やはり板野には、他の人からの話が耳に入る前に、ちゃんと自分の口で伝えておきたい。
「あの……お見合いは、ダメになったんです」
「え? あっ、そうだったの。ごめんね、また余計なことを。ああ、やっちゃったなあ」
 館長と同じように、ばつが悪そうに恐縮している板野に、慌てて笑みを向ける。
「違うんです」
 首を横に振る珠恵を見て、板野が首を傾げた。
「違うって?」
「あ、あの」
「うん?」
「すみません。……あの、本当は風邪っていうのも、嘘で、あの、でも本当にちょっと体調のこともあって仕事に出られなくて。……すみません」
「あ、いや。それはもう、ね。まあ色々あるだろうし。普段の珠ちゃん見てるからさ」
 労わるような表情をみせた板野は、もしかしたら珠恵の欠勤が、見合いが上手くいかなかったせいだと思ったのではないだろうか。そう気が付いてまた慌てた。
「あの、板野さん」
「ん?」
「……あり、ました」
「え、何が?」
 少しだけ息を吸い込んでから、珠恵は板野の顔を見つめ返した。
「さっき、何かいいことがあったのかって」
「え、ああ。うん。……え? 何、いいことがあったってこと?」
「はい……あの、いいことっていうか……実は、あの、前に言ってた人と」
「前にって」
 気になっていた人――風太のことをそう口にしようとして、顔が赤くなるのがわかる。
「え? あれ、もしかして、前にフラれたって言ってた人?」
「あ、の、はい。その人……です」
 板野が、勘のいい人だったことに胸を撫で下ろす。
「え……もしかして、うまくいったの」
 はい、と答える代わりに何度か頷きながら、恥ずかしくて板野の顔を見られずにいると、隣で、ふっと息を吐くように笑う気配がした。
「ああもう、何、そういうこと?」
「は、い」
「お見合いも、それでやめたの?」
「あ……はい」
「なんだもう、良かった。傷口に塩塗るようなこと言っちゃったかと」
「いえ、あの……すみません」
 恥ずかしさも手伝って、つい謝ってしまう。
「でもやっぱり、気のせいじゃなかった」
「やっぱり?」
 何が、やっぱりなのだろうか。
「だってねえ、今朝会った時から、珠ちゃんから感じた空気、ていうか雰囲気。なんかちょっと休む前と違うような気がしたのよね」
「……え」
「最初は病み上がりだからかなって思ったけど、そういうんじゃないなあ、って」
 返ってきた答えに狼狽える珠恵を尻目に、板野は一人納得したかのように頷いている。
「そっかあ。うん、でも……良かったね」
 うんうんと頷きながら、そんな風に言ってくれた板野に、照れながら礼を言う。
「今度詳しく話聞かせてね」
 再びどこか真那とよく似た種類の笑みを浮かべた板野には、さすがに、もう一緒に暮らしているのだとは言い出せなかった。
 駅の改札を潜ったところで、板野と別れる。これまでと違うホームへと向かい、ひとり家路につくのは、不思議な感覚だった。今日から帰る場所は、今まで暮らしていた家ではない。いつもとは違う電車に乗り込む瞬間、珠恵は少しだけ、胸の痛みを感じた。

 今から帰ると喜世子に連絡を入れた方がいいだろうかと鞄に手を入れてから、珠恵は自分が今、携帯を持っていないことに気が付いた。昌也から、珠恵の携帯は父が処分してしまったと聞いたことを思い出して、気持ちが重くなる。
 もともと、最小限にしか使っていなかったものだ。だから、今日まではそれほど不便を感じることはなかった。さすがにないと困ることもあるだろうし、何よりあれには、少ないとはいえ風太から貰ったメッセージもいくつか残っていた。新しいものを買いに行かなければならないとは思うものの、すぐには踏ん切りがつかない。
 そんなことをぐずぐずと考えているうちに、電車が速度を落とし、駅に到着する。帰宅ラッシュと重なるこの時間、駅で降りる人もかなり多い。人ごみに紛れながら改札を抜けて出口へ向かおうとして、その先に佇んでいる人に気が付いた珠恵の足が止まった。
 急に歩みを止めた珠恵の肩に、後ろから歩いて来た男性の身体がぶつかる。
「あっ、すみません」
 舌打ちをした男性は、手にしていた携帯を弄りながら、振り向くこともなくそそくさと駅の出口へと去って行く。押されてよろめいた珠恵の腕を、力強い手が掴んでいた。
「ったく、何かねえのか」
 迷惑をかけたのは珠恵の方で、怒鳴られたところで文句も言えない。なのに、男性が消えた方向に視線を送りながら不満げにそう呟く目の前の人を、そっと見上げた。
「私の方が、急に止まったから……あの」
 僅かに眇められた瞳が、珠恵の方へと戻ってくる。
「風太さん」「おかえり」
 声が重なり、風太の目元から少し力が抜ける。
「た……ただいま……です」
 昨日までとは逆のそのやり取りがくすぐったくて、思わず語尾に、です、と小声で付け加えてしまう。気恥ずかしさを誤魔化すように目を逸らして、問い掛ける口調が早くなる。
「どうしたんですか、どうしてここに」
「迎えに来たからだろ」
 何を当たり前のことを、とでもいいたげな答えが返ってきた。
「でも、あの、今日は何も」
 約束などはしていなかった。早番だと言った覚えはあるが、必ずしも定時に終わるとは限らない。今日は比較的時間通りに終われた方だが、それでも帰り際少しではあるが板野と話したりもしていた。いったい、いつから風太は待ってくれていたのだろうか。
「もしかして、ずっと待っててくれたんですか」
「ちょっと行くとこもあったしな。ずっとってほどじゃねえ」
 今度は逆に僅かに視線をずらした風太の様子に、きっとそれでも長い間待っていてくれたのではないかと感じた。
「すみません。あの、携帯、なるべく早く買いにいきますね」
「ああ。けどまあどうせ、今日は休みだったからな。……ほら、帰るぞ」
「あっ、はい」
「車、ちょっと知り合いんとこに停めてるから」
 いつもとは違う出口に向かう風太の後ろを、珠恵も慌ててついて行く。もう夜といえる時間なのに、外はまだ結構明るかった。
 視線を少し落とすと、その先にある風太の腕が目に入る。たった数センチ先にある、夏でも長袖のシャツから覗く手のひら。しばらく見つめていたそこに指を伸ばそうとした珠恵は、けれど躊躇って途中でその手を止めてしまった。
「にしても暑いな」
 そのタイミングで声を掛けられて、咄嗟に、伸ばしかけていた手を引っ込める。
「はい……もう、夏ですね」
 そんなありきたりな返事をしてから顔を上げると、もう一度振り返った風太が「――手」と、そう一言だけ口にして、後ろに手を伸ばしてくる。
「え?」
 今の動きを見咎められていたのかと少し焦りながら、手がどうかしたのだろうかと思っている間に、その手が珠恵の指に触れた。
「……暑いか」
 まるで心を読み取ったような風太の行動に、小さく鼓動が跳ねる。触れた指を握り返して、首を横に振った。
「あの、私も」
「ん?」
「繋ぎ……たいなって、でも、風太さん暑くて、嫌かなって」
 言っていることの気恥ずかしさに視線を俯けると、繋がった二人の手が目に入る。
「な訳ねえだろ」
 ほんの指先だけを緩く絡めるように繋いだ手を引きながら、風太が小さく笑った。
「にしても……いまさら手ぇくらいで」
「そ、そうですよね」
 手を繋ぐ以上のことだってしてるくせに、慣れない自分が恥ずかしくて声が窄む。
「ああ、お前のことじゃなくて」
「え?」
「俺も、大概だと思ってな」
 苦笑いを浮かべた風太と二人、駅前の賑やかな通りを抜け裏通りを歩いていく。しばらくすると、視線の先に見慣れた喜世子の軽自動車が停まっているのが見えた。親方の知り合いが、遊んでいる土地を駐車場にしているらしく、時折空いているスペースを利用させて貰うのだという。
 繋いでいた手が離れて、車のロックを解除する音と共にライトが点滅する。助手席のドアを開けた珠恵は、シートに腰を下ろした瞬間、ふと何かが気に掛かり後ろを振り返った。

 瞳が捉えたものに視線を向けたまま、胸が、小さく震える。
「――風太、さん」


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