たった数日離れていただけのはずなのに、とても久しぶりに感じる本の匂いに、胸が一杯になる。
カウンターへ入り電源を落としている電子機器類のスイッチを入れてから、珠恵は時間外に返却された図書が溜まっているブックポストへと足を向けた。いつもより多い返却図書を、一冊ずつ取り出してそのまま運べるブックトラックに並べていると、ビニールのカバーが破れた痛み具合の酷い本が出てきた。
一年程前に出版され、ベストセラーになった今でも予約待ちが入っている本だ。たくさんの人が手に取る分、傷むのも早い。補修のためその本を脇に避け作業を続けようとした時、フロア内に人が入って来る気配がした。
「あれ? 福原さん。風邪よくなった?」
「あ、おはようございます。はい、あの……」
声を掛けてきた男性職員に、休んでいた間のこと詫びたる。いくらかの言葉を交わす間に、ポツポツと他の職員も姿を見せ始めた。開館前の作業を中断したまま、珠恵はその一人一人に頭を下げて回った。心配してくれる人、嫌味を口にする人、笑ってくれる人、反応の薄い人、それぞれに応じ方は違って、中には「いなかったっけ?」という人もいて、胸の内で苦笑いをする。
ひと通り挨拶を済ませ、仕事に戻ろうとしたとき、バタバタとひと際大きな足音が聞こえた。
「あーっ、福原さんっ」
声を上げ駆け込んで来たのは、予想通り真那だった。
「ま、真那ちゃん」
「よかったぁー、ほんと来てる。っていうか、ちょっと、どうなってるんですか」
「あ、あのね、真那ちゃん」
早口で捲し立てる真那の言葉をどうにか遮る。
「いろいろ、ありがとう。でもね、あの時間」
出勤時間ぎりぎりに駆け込んできて、ロッカールームへ向かう途中で珠恵を見かけフロアに入って来たらしい真那は、まだ支度を終えていない。
「うわっやばっ。あのっ、とにかく後で色々、絶対絶対いろいろ聞かせて貰いますから」
慌てて時計を見た真那は、それでも期待に輝く瞳でしっかり珠恵を見つめてから、再びロッカールームへと向かい走って行った。
ここ数日の変化が目まぐるし過ぎて、真那にはまともに礼を伝えられていない。直接連絡が取れないまま、結局は職場で顔を合せることとなってしまい、それを申し訳なくも感じていた。本当は朝のうちに少しでも話せたらと思っていたが、どうやらそれも無理そうだ。ただ、真那の元気そうな様子に、珠恵の気持がどこか軽くなった。
真那が立ち去り、騒がしい空気が消える。気を取り直し再びカウンターの奥へ戻ると、珠恵が取り掛かっていた作業を継いでくれていた板野が顔を振り向けた。
「ほんと落ち着かない」
呆れた様子に返事をしあぐねたが、板野が見せている表情は、咎める言葉ほどには厳しいものではなかった。
「でも、ね。頑張ってたよ真那。珠ちゃんがお休みの間」
「え?」
「シフトも、率先してカバーしてくれて」
「そう、だったんですか」
「うん。ま、でも。一番若いんだから、働いてもらわなきゃね。それに、だからって遅刻は駄目だし」
真那に礼を言わなければならないことがもう一つ増えた。そんなことを改めて思いながら、作業に戻るためにそばに近付くと、何も言わずに本が手渡される。受け取ったそれをラックに並べていると「そういや――」と何かを思い出したような声がして、珠恵は手を止めずに板野へと顔を向けた。
「珠ちゃん、さっき園田君に、いなかったっけとか言われてなかった?」
「あ、はい。もしかして……休んでるって、気付かれてなかったんでしょうか」
問い掛けに声を出して笑った板野が、ないない、と首を横に振る。
「それはさすがにないから。あれ、あの人なりの気にするなっていう意味。ほんっとわかりにくくて、面倒臭いけど」
園田と同期の板野が語る口調から、どうやらそれが本当らしいとわかる。言葉通りに受け取っていたが、実は心配して貰えていたのだと思うと、少し嬉しくなる。
「……よかった」
「え?」
「本当に、何日もいなくても気付かれないような存在なのかなって……」
「もう、んとに、しょうがないなあ園田君は。だいたい珠ちゃんも、何年ここにいるの。そんな訳ないでしょ」
そう、元気づけるように言ってくれる板野に、頷きながら笑みを返す。返却図書を回収し終えて時計を見ると、そろそろ図書館が開館する時間だった。
「あ、珠ちゃん」
「はい」
「これも一緒に補修、お願いね」
「あ、はい」
先ほど脇に避けておいた書籍と同様、破損がみられる数冊の図書を珠恵に指し示してから、板野がブックトラックを押していく。いつの間にか真那も、貸し出しカウンターに着席していた。補修が必要な数冊の図書を抱え、珠恵も足早にカウンターへと向かう。
ちょうど席についたタイミングで、図書館が開館したことを告げる音楽が鳴り始めた。
また、変わらない日常の業務が始まる。
日曜日の今日は、暑さ凌ぎにと図書館へとやって来る人も多いのだろう、平日よりたくさんの人が出入りしていた。さすがにこの暑さでは、テラス席も昼を迎える頃には、日焼けが目的のような若者と、日に焼けることを気にしない年配の男性以外の姿は見えない。
「福原さん、今日、お弁当ですか?」
昼休みが近づいた頃、真那がカウンターが空いた隙を見計らい、椅子を回し早口でそう声を掛けてきた。
「あ、ううん、何か買いに行こうかって」
「ごはん、普通に食べれます?」
「え、うん」
「じゃランチ、公園のそばにあるお店押さえてますから」
「え、あ、でも誰かと行くつもりじゃ」
「福原さんとですよ。いいですか?」
「え、あ……ありがとう」
「じゃ、なるべく急ぎで」
まるで任務報告みたいに矢継ぎ早に言い終えると、すぐに椅子を元に戻した真那の前に女性が並ぶ。接客を始めた真那の後ろ姿を見ながら、いったいいつの間に予約したのだろうと疑問が浮かんだけれど、カウンターに差し出された本に我に返ると、珠恵の前にもすでに人が並び始めていた。
正午を三十程過ぎた頃、先に昼休憩に入っていた人と入れ替わり、珠恵たちも休憩に入った。
急ぐ真那と連れだって向かったのは、最近公園の近くにオープンしたカフェだった。公園内も、気候が穏やかな時期にはオープンカフェなどが設けられ、土日は特にとても賑わっている。周辺の店もどこも混み合っていて、少し昼をずれた時間だとはいえ、普段は休憩時間に外でランチを取るのはなかなか難しい。
「真那ちゃん、あの、予約っていつの間に?」
店への道すがら、尋ねてみる。
「駄目ならキャンセルすればいっかーって思って、昨日押さえといたんです」
「え、昨日?」
「はい。福原さん出てくるって聞いたから」
「そう、なんだ……」
「休憩室じゃ色々聞けないし」
ね、と相槌を求めた真那の、本当に色々聞きたそうな目に気圧されながら、小さく頷き返す。
初めて訪れたそのカフェは、数十種類取り揃えられたフレーバーティーと、有機野菜を使ったフードメニューに力を入れている店だと、オープン当初に配っていたチラシには書かれていた。
少し前に雑誌でも紹介されていたとのことで、店の外まで順番を待つ人の列が伸びている。店内で予約していることを告げ、案内されて席へと向かう真那は堂々としているが、珠恵は何となく順番を抜かしている気持になってしまい、俯き気味に小さく頭を下げながら中へと入った。
ガラス張りの店内からは、公園の緑が目に入る。もちろん満席で、小さな子ども連れの家族の姿も多く見られる店内は、適度なざわつきに満ちていた。開放的で健全な空間に身を置いていると、閉ざされた自分の部屋で、一人きりで過ごしていた時のことがまるで夢のように思えてくる。
「ここのランチ、紅茶の茶葉を使ったオムライスセットが結構美味しかったって木内さん達が言ってて。今日は食べるの目的じゃないし、もうそれでいいですか」
メニューを見る間も惜しむような、有無を言わさぬ口調の真那にただただ頷く。水の入ったグラスをテーブルに置いた店員に、紅茶のオムライスランチを注文した真那は、早速水を一気に飲み干すと、一つだけ息を吐いて、上目使いで珠恵を見た。
「で?」
先に礼を伝えようとすると、そんなことはどうでもいいとばかりに遮られ「いいから、何がどうなってるんですか?」と、身を寄せて来る。声だけは潜めながらも、迫るような勢いと視線にたじろぎそうになる。
「あの……ね、実は――」