――可愛くて仕方ねえ
洗面台の前の鏡に、まだ惚けて赤くなった顔が映っている。心臓も収まることなくドキドキし続けていた。
「……もう」
思い出すだけで、また込み上げそうになる熱を振り払うように頭を横に振って、珠恵は火照りを冷やすために冷たい水でもう一度顔を洗った。水を溜めた手の中に顔を浸すと、ひんやりとして心地いい。二、三度それを繰り返してから顔を拭いて、歯を磨き始めた。
ようやく少し落ち着いてきたのに、これから部屋に戻り二人きりで同じ空間で眠ることを考えると、また鼓動が早くなる。いつもより長い時間をかけて歯を磨いて、口をゆすぎタオルで口元を拭いながら、もう一度鏡を見つめた。
こんな風に、一言ひとことに狼狽えてしまう自分のことを、きっと風太は呆れている。けれど、ただそばにいて視線や言葉を交わすだけでもドキドキとするのに、平気な素振りなんてできそうになかった。
タオルに顔を伏せて、深く息を吐き出す。
それでも――見つめていたくて、触れたくて、ずっとそばにいたい。風太の声や視線や強い腕に、ずっと捕われていたい。そんな欲深い想いはどんどん強くなっていく。男の人に、そんなことを感じる自分がいるなんて、珠恵は今まで知らなかった。
もしかしたらもう眠ってしまったかもしれない、そう思いながら、部屋の前でひとつ深呼吸をして扉を軽く叩く。しばらく待ってからそっと扉を横に引くと、まだ明かりの灯された部屋の中、風太はもう布団に横になっていた。
顔だけを振り向けた風太に、タオルで口元を覆いながら「あの」と、小さく声を掛ける。なんだ、と応えるようにその眉が僅かに上がる。
「明かり、もう……消してもいいですか」
遅くまで学校に行って、明日も早くから仕事に出るのだ。夕べだって余り眠れていないだろう風太を、できるだけ早く眠らせてあげたかった。
「ああ」
短い返事のあと、視線を元に戻した風太のそばに近付き、手を伸ばして電気の紐を握った。二度それを引いて顔を下に向けると、頭を手で支え横向きに寝そべったまま、風太の視線が珠恵を見上げている。
「あの、全部消して、いいですか」
子どもでもあるまいし、暗い部屋では眠れないなんてことはないだろうと思いながらも、普段の風太の習慣を知らない珠恵はそう尋ねてみた。
「消さなきゃ、眠れねえほうか」
「あ、いえ、私はどっちでも」
首を小さく横に振ると、僅かに視線を逸らした風太がボソッと口にする。
「じゃあそれでいい。真っ暗な部屋は……あまり好きじゃねえんだ」
「はい……。それじゃあ」
オレンジ色の常夜灯を灯したままで、珠恵は風太が眠っている隣の布団に腰を下ろした。そうして、足元に置かれたタオルケットにのろのろと手を伸ばし、手繰り寄せる。
「珠恵」
静かな声で名を呼ばれ、手を止めた。薄暗い明かりの中、風太がこちらを見つめている。
「……はぃ」
視線の先、横になった風太が敷布団の空いた場所――風太のすぐ隣を、手のひらで叩く。仕草の意図を汲み取った途端、珠恵は頭も身体も固まってしまい、タオルケットの端を握り締めたまま風太を見つめ返していた。
「こっち、来いよ」
「あ……あの」
痺れを切らしたのか、もっとわかりやすい言葉で珠恵を誘う風太のさっきよりも低い声。夜の静寂を震わせるように耳に届いたその声色に、心臓が跳ね体温が上がる。
部屋が薄暗くてよかったと、珠恵は思っていた。きっと気付かれてはいるだろうけれど、顔がまた赤くなっているのを見られずに済む。
「でも……眠れないんじゃ」
「お前がいる方がいい」
「……あの」
「グズグズしてっと、俺がそっち行くぞ」
笑いながらそんな風に言われて、躊躇いつつも少しずつ風太の布団に近付いていくと、腕を引かれ抱き寄せられた。珠恵が無意識に握っていたタオルケットを取り上げ、後ろから掛けてくれた風太と、背中越しに重なる体温。鼓動が、耳の奥に響いて息が苦しくなる。
二人でいると決めたのに、こんなことにいつまでも狼狽えていたのでは、きっとまた呆れられる。そう思うのに、風太の腕の中で、緊張のあまり息を潜めるように身体を固くしてしまう。
直に伝わる小さな振動で、風太が笑ったのがわかった。後ろから回されたゴツゴツとした指が、珠恵の指を絡め取る。
「今日も何もしねえから、身体の力抜け」
「は、はい」
昨日の夜は、どこかぼんやりとしていたからか平気でいられたのに。今日は色んなことをはっきりと意識してしまって、もうどうにもならない。それでも、重なる身体の温かさや緩く絡まる指に、ほんの少しずつ力が抜けていく。珠恵の肩口に顔を寄せた風太が、深い息を吐き出した。静かな呼吸だけが、首元をくすぐるように繰り返される。
「あの……風太、さん」
目を閉じてみたが全然眠くならなくて、珠恵は少し迷ってから口を開いた。
「……ん?」
「今日、職場に……あ、あの、図書館に。電話をしてみました」
「ああ」
肩口で返事をする風太の息が肌にかかり、身体が少しゾクゾクする。
「そ、それで、あの……明後日から私、仕事に……行こうと思います」
少しだけ考えるような間が空いて、風太の答えが返ってきた。
「平気か?」
「はい。今でも、もう十分迷惑を掛けてしまってて、これ以上迷惑を掛けることも、できないし。本当は、明日からって言ったんです。けれど……明後日からで構わないって、言って貰えて」
「……そうか」
「はい。それで、明日は、喜世子さんが、当面必要な物を買いに行こうって、そう」
「ああ、確かに、色々いるもんがあるな」
「はい……」
少し身体を動かした風太が、欠伸をしながら「図書館か……」と呟いた。眠くなってきたのだろうと、そろそろ話を切り上げた方がいいかと思いながら、黙って頷く。
「俺も、随分長いこと、行ってねえな」
「……私……あの」
「ん?」
「あそこでの仕事が、とても、好き、なんです」
「ああ」
「それ、だけじゃなくって……」
背を向けたままなら。そして風太が眠りそうな今なら言える気がして、珠恵は息を少し吸い込んで口を開いた。
「あの場所は、私には色んな意味で……と、特別なんです」
「……とくべつ?」
いつもより少しゆっくりとした、眠そうな声の問い掛けに小さく頷いて。
「あそこは……初めて、風太さんと、出会った場所だから」
そう、消え入りそうな声で伝えた。
しばらくは何の反応もなくて、もしかしてもう眠ってしまったのだろうかと思いながら、じっとしていた。ひょっとしたら呆れて黙っているのだろうかと、詰めていた息をそっと吐き出そうとした時、突然身体に廻された風太の腕が強く珠恵を引き寄せた。
「この、ばか」
「え……あっ」
小さな舌打ちと共に身体が反転し、あっという間に、両手を布団に縫い付けるように、風太が珠恵を見下ろしていた。
「ったく、人の気も知らねえで」
「あ、の、風っ」
名前を呼ぶ声は、そのまま風太の唇に呑み込まれた。
「んっ……まっ」
待ってなんか貰えるはずもなくて、重ねられて食まれて、舌でなぞられた唇をおずおずと開くと、待ちきれないように性急に侵入した舌が珠恵のそれを絡め取る。耳の奥に響く絡み合う水音が淫靡で、頭に血が上った。
「……んっ……っふ」
体重をかけないようにと少しだけ離れているのだろうが、それでも伝わる風太の体温を移し取るように、珠恵の身体にも熱が灯っていく。音を立てながら唇が離れ、珠恵を射るように見下ろした瞳が、薄暗い中でもわかるほど、欲を孕んでみえた。
こんな目で見つめられることにも全然慣れなくて、心臓の音がきっと風太にも聞こえているに違いない。
「何もしねえっつったけど……」
小さな溜め息を零した風太が、少しだけ視線を逸らした。
「今日は、無理だ」